あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

末松太平 ・ 赤化将校事件 1

2017年12月08日 04時56分58秒 | 末松太平

青森歩兵第五聯隊の記録
---赤化将校事件---

末松太平

二・二六事件連座の獄をでた私は
翌昭和十五年、
ある会合に出席して、
たまたま同席した厚生省労政課長の北村隆に紹介された。
紹介したのは、これも同席した竹内俊吉だった。
竹内俊吉は永年つとめた東奥日報をやめて、
東京の昭和通商に はいったばかりだった。
東奥日報といえば 青森県の代表的新聞である。
竹内俊吉は東奥日報社時代からの知合ということで北村隆と久濶を叙していたが、
ことのついでのように、そばにいた私を北村隆に紹介した。
私は北村隆とはもちろん初対面だから、初対面のように挨拶した。
が 北村隆は、いくぶん皮肉めいた笑いをうかべて
「 末松さんのほうは初対面のつもりでも、私のほうは初対面ではありません。
私は五聯隊赤化将校事件当時の青森県特高課長ですから。
青森県特高史に五聯隊赤化将校事件と、はっきり記録されています 」
と いった。
北村隆のいう五聯隊赤化将校事件がなんであるかは、私にはすぐに理解できた。
私が昭和五年の暮、仕出かした、
事件というほどのこともない些細な事件のことをさしているわけで、
赤化将校とは、とりもなおさず 当時の私のことである。
その意味で当時青森県特高課長だった北村隆にとって
私は初対面の相手ではないわけだった。
互いに初対面の顔が覆い会合だった。
引合わされて幾組も初対面の挨拶を交わしていた。
そのなかで私の場合は、ただの初対面でなく、
五聯隊赤化将校事件などという思いがけないものが、
十年後に、引きずりだされることになった。
それにしても、赤化将校事件とは恐れ入った格付けだった。

昭和五年は、
半ばから年末にかけて私は、機関銃隊長代理をしていた。
本職の機関銃隊長が千葉の歩兵学校に派遣されていたから、
その留守のあいだ、
中尉になったばかりだったが、
機関銃隊将校のなかでは最古参というだけで私が代理をつとめていた。
赤化将校事件と青森県特高でいっていたという事件は、
この機関銃隊長代理をしているあいだの、
除隊兵を送り出すとき、おこしたことだった。

毎年十一月の末に、その年の二年兵は除隊することになっていた。
一緒に入営した同年兵のうちでは、最後まで残された兵である。
一緒に入営した同年兵のうち
幹部候補生に合格した有資格者は、甲種、乙種の別はあったが、
旧制度の一年志願兵同様、一年で除隊した。
残ったもののうち入営前、居住地で軍事訓練をうけ、入営後の検定に合格したものは、
それから半年後に除隊した、
十一月に除隊する兵は幹部候補生になる学歴もなく、
北海道やカムチャッカなどに出稼ぎにいっていたか、家族が忙しいかで、
入営前に軍事訓練などうける暇のなかった兵である。
この最後まで残った兵に召集した予備役兵を合わせて、
稲の刈入れのおわる十月半ばから十一月の初めにかけて、毎年秋季演習が行われる。
これがおわると、それを待ちかねたように予備役兵は
「 うちのほうにも内務班がありますから 」
というものもあって、さっさと除隊して帰郷してしまう。
あとの兵営は人影もまばらで閑散になる。
二年兵は、いよいよ自分の番を待つだけである。

除隊日が迫ると、中隊長は除隊兵を集めて現役最後の訓示をする。
良兵良民の訓示である。
良兵である お前たちは、こんど郷里に帰ったら良民にならねばならぬ、
ということがいいたいたるの訓示である。
軍隊内務令にも
「 在営間の教養は、
ただに全服役間を通じて軍人の本分を完うするに緊要なる基礎たるのみならず、
またもって国民道徳を涵養し、終世の用を為すべき習性を賦与するに至るべきものにして、
軍人は帰郷ののちと雖も、永くこれよりて各自の業務を励み、忠良なる国民となりて、
自らよく郷党を薫染し以て国民の風向を昻上せしむることを得る 」
良兵の証明書が善行証書で、それには照明者の聯隊長の官姓名が印刷しいあり、
判もおしてある。
が 教育とは分類し序列をつけることであるかのように、
序列によって、もらえぬものと、もらえぬものとが分類される。
比率があって除隊兵の何パーセントかが、もらうのだが、
もらえるものより、もらえぬもののほうが数が多い。
善行証書に値打ちがあるのはそのためで、就職、嫁取りの身分保障にもなる。
善行証書はしかし、
このころの五聯隊では、いよいよ除隊する、その日の朝でなければ渡さないことになっていた。
前日に渡して不都合なことのおこった前例があってからのことである。
二年間要領よく、かぶりつづけた猫を、善行証書をもらったとたん、
もう大丈夫と、たった一晩の辛抱がしきれず、ぬいで、正体をあらわすものがいたわけである。
一度渡したものを取返すのも無様だが、
たとえ取返したとしても、見込みちがいは取返しがつかない。
それを予防するため、営門を出る、ぎりぎりまで善行証書は渡さないことになっていた。
が 現役で除隊するまでは、猫をかぶりとおして無事善行証書をもらっておきながら、
予備役できて、臆面もなく正体をあらわして、あとの祭り、中隊幹部をくやしがらせる例もあった。

善行証書とは関係ないが、なかには折角、猫をかぶりおおせて除隊したのに、
わざわざそれをぬぐいにくる兵もいた。この年の機関銃隊の除隊兵のなかに今岡という兵がいた。
今岡は除隊日の夜、合同官舎の私の部屋にたずねてきた。
「 なんだ、まだ帰らなかったのか 」
というと 今岡は
「 このまま帰ろうと思いましたが、猫をかぶったまま帰っては教官殿に、
すまない気がしたものですから 」
といって、自分の入営前の経歴をはなした。
入営前憲兵にわかっていれば、多分要注意兵にされていたであろう経歴だった。
軍隊には要注意兵という扱いをうける兵がいた。
五聯隊にも毎年わずかながら、そういう兵が入隊した。
要注意兵というのは憲兵から赤化した危険人物と、入営前連絡のあった兵のことである。
実は、この年の機関銃隊の除隊兵のなかにも要注意兵が一人いるはずだった。
毎年初年兵の入営を前にして、人事係特務曹長は聯隊本部から、
配属される兵員名簿を受領してくるのだが 二年前、このときの除隊兵のとき、
機関銃隊の人事係特務曹長は、要注意兵を一人、押しつけられてきた。
聯隊本部から帰ると初年兵教官だった私に
「 こんどは機関銃隊も番だと聯隊副官殿から因果をふくめられ、厄介者を一人もらってきました 」
といって苦笑した。
前には漸くレルギーが軍隊にあったが、このころの五聯隊では、個人差はあったが、
一般ではもう、それを特別意識するようなことはなかった。
かえって要注意兵自身のほうが終戦後、本人が書いたものなどをみても過剰にそれを意識していたようで、
要注意兵だからということで特別に変った待遇をするわけではなかった。
但し人事係特務曹長だけはべだった。
前からつづいている規則によって、一人でも要注意兵がいると、そのため毎月、聯隊本部に、
異常のあるなしにかかわらず報告書を提出しなければならなかった。
要注意兵がいるというだけで面倒な仕事が一つ増えるわけで、
人事係特務曹長にとっては、いかにもこれは有難くない荷物だった。
が 幸いなことに、このときの要注意兵は入営直後の身体検査にはねられ即日帰郷になった。
特務曹長はほっとした。
初年兵が入営する前、各中隊では親許に家庭通信を郵送し、所要の欄に記入したものを、
返送してもらうことになっていたが、このときの要注意兵は、本人の特長という欄に
「 命ぜられたことには反抗する性質がある 」
と 本人の筆跡らしい字で記入してあった。
それで、どんな青年だろうと、即日帰郷で帰りかけているのをとらえて
「 なにをしたんだ 」
と きいてみたら、家庭通信のそれとは、うってかわった素直さで、要注意兵にされたと思われるいきさつの、
あらましをはなした。
格別のことではなかった。
今岡の猫かぶりの経歴と似たようなことだった。
今岡と同じように組合運動の、お先棒みたいなことをしていたというだけのことだった。

猫を脱いだ今岡は、私の部屋に一晩とまって翌朝、北海道の親許に帰っていった。
帰りぎわに今岡は着ようとしたチョッキの裏をみていたが、着るのを一旦中止して、
ここに記念に字を書いてくれといって、チョッキの裏をひろげた。
裏地は白地だった。
私はなにか気負った文句を書いたようだった。
「 一剣報公 」 というのだったかも知れない。
北海道に帰りついた今岡からは時々手紙がきた。
手紙は二・二六事件までつづいた。
父親と同じ職場で働いているといっていた。

私が機関銃隊長代理をしていた昭和五年はロンドン条約が締結された年である。
条約の調印をめぐって統帥権干犯問題がおこり、
これがもとで総理大臣浜口雄幸は十一月十四日、
東京駅で佐郷屋留雄に狙撃された。
草刈海軍少佐が財部海軍大臣を、ロンドン会議からの帰朝の途中を要して
暗殺しようとしたが果たせず、それを自責して自刃したのは、
これに先だつ五月十一日のことだった。
ロンドン会議の最中、海軍中尉藤井斉は海軍部内に
「 憂国概言 」 を 配布して、
国家革新の見地からロンドン会議の重要性を訴えた。 ・・・リンク→ 
藤井斉 ・ 『 憂国概言 』 
加藤軍令部長の手記も、写しが陸海軍革新将校のあいだに順次手渡しされ、
私のところにも届いていた。
そのなかには、草刈少佐自刃の真意を財部海相に云う、
とか、若槻全権帰る、刈り出しの歓迎盛んなり、などといったことが記してあった。

昭和五年はまた世界恐慌が日本にも波及した年で、失業者は急増していた。
「 大学は出たけれども 」 就職はむずかしかった。
農村は豊作飢饉だった。
この年の東北地方も豊作だったが、冷害凶作のときと変りはなかった。
酒保で呑む一合の酒が、
在郷の親がつくる大根何本に相当するかを思うと兵隊は、うかうか酒保の酒も呑めなかった。
軍隊は閉鎖社会といわれていた。
五聯隊では青い針の棘が痛い、からたちの生垣を
有刺鉄線で補強して、社会から兵営を隔絶していた。
藤原義江の歌う歌のように、
兵営の生垣のからたちも、春には優しく白い花が咲き、
秋には金色のまろい玉の実がなった。
が、からたちの生垣から一歩出ると外には、失業の風が吹きすさんでいた。
善行証書をもらわぬ除隊兵にとっては、ことさら冷たい娑婆の風だった。

秋季演習にいく前だった。
兵営の裏側の稲田を一人たたずんで眺めている機関銃隊の二年兵がいた。
兵営裏側の水田は、私の郷里の九州などと比べれば問題にならないが、
この地方では反収の多い良田のほうで、稲はゆたかに実って刈入れを待っていた。
私は近づいて
「 いよいよ、除隊だね 」
と 声をかけた。
その二年兵は
「 このまま軍隊に残っておれたら楽ですが、
うちの人手のことをかんがえると、そうもいきません 」 と いった。
稲が実のれば除隊日が近づく。
兵隊は稲を除隊草といって実のりを待ち、除隊日を待った。
その除隊草の二度目の実のりを迎えて、除隊日が目の前にきているのに
「 このまま軍隊に残っておれたら---」
と、ふとつぶやく兵もいるわけだった。
私も代理ながら格は隊長だから 除隊前の訓示をしなければならなかった。
が 除隊の前日になってもしなかった。
かわりに善行証書授与式を行った。
が 午後になって訓示代りに、何か書いて除隊兵に持たして帰そうと思った。
将校室の机に向かって筆をとった。
「 諸子が一歩営門を出れば失業が待っている 」
といったようなことから書きだした。
そこで藤井斉中尉の 「 憂国概言 」 のことを思いだした。
「 憂国概言 」 は 私のところにも郵送されてきていて、都合よく将校室の机のなかにいれてあった。
私がこれから書こうとしていることは結局 「 憂国概言 」 と 同じようなものになると思った。
どうせ同じようなものになるのだったら、新たに文章をひねりだすより、
これをそっくり真似たほうが労力が省けて利口だと思った。
私は 「 憂国概言 」 をとりだすと、
営門を出ると失業が待っている、の 書き出しは、そのままにして、
ところどころ時期的に合わないところなどを直しんがら、引き写しをはじめた。
剽窃ひょうせつである。
原稿ができあがると自分でガリ版切りをした。
表題は 「 憂国概言 」 をもじって 「 憂国数言 」 とした。
ガリ版刷りは部下の下士官にやらせた。
夜の点呼ごろまでかかった。
紙は官給の和紙より良質の和紙を買ってこさせておいた。
和紙特有の香りのいい、少し黄色がかった紙だった。
除隊日の朝は、
現役最後の朝食をおえた除隊兵が身支度をして舎前の営庭に、各中隊一様に整列した。
そこで各中隊では同じように善行証書授与式を行っていた。
機関銃隊の除隊兵は善行証書授与はすんでいるから、
各班ごとに班長から、ガリ版刷りをもらうと、
各中隊の善行証書授与式を尻目に奉公袋を提げて、さっさと営門をでていった。

除隊兵が出ていって十二月にはいると兵舎はさらに閑散になる。
雪は十二月にはいる前から、降っては消えていた。
山はもう雪におおわれ、八甲田山はとうに真白になっていた。
が 里の根雪はまだだった。
将校集会所の炉辺でも、
ことしの根雪は、いつからだろうといってみることが欠かせない挨拶だった。
そのなかで翌年一月十日に入営する初年兵の教育の準備をする。
このときの初年兵が、あとで私と一緒に満洲事変に出征する兵になる。
初年兵教官がきまり、助教、助手が選ばれる。
内務班の編成がえもし、支給する兵器、寝具、被覆の整備もする。
そうこうして十日ぐらいたった夜のことだった。
突然三人の除隊兵が、班長一人に付添われて合同官舎の私の部屋にたずねてきた。
西山、須藤、前川の三人で、三人とも青森市内のものだった。
が、それがそろいもそろって在営間は、いわくつきの一等兵たちだった。
もちろん善行証書などは無縁の三人だった。
西山は商業学校中退だから当時としては学歴のあったほうで、
能力からいっても上等兵になって当然だったが、
商業学校中退という経歴に何かいわくでもあったのか、
世にすねたような性質を軍隊にまで持ちこんだようで、
酒癖のわるさも手伝って内務での行儀もわるく、
上等兵候補者にはなったが、上等兵にはなれなかった。
須藤は、うちが魚屋で、魚屋のむすこらしい威勢のよさはあったが、
西山同様、これも酒癖がわるく、
日曜祭日の外出のたびに泥酔して、帰営時刻すれすれに営門を通過するのが常習で、
週番勤務者を、いつもはらはらさせた。
それだけでもよくなかったが、
時には帰営後一旦内務班におさまったかと思うと、裸になって営門にむかって飛びだし、
あわてて追っかけた戦友たちにつれもどされるという、おまけまでついた。
前川は、うちが蕎麦屋で、魚屋と蕎麦屋の家業のちがいのせいでもあるまいが、
須藤とはちがって朴直だったが、因果なことに夜尿症を持ったまま入営した。
機関銃隊の不寝番は前川をしくじらせないため、
時間をきめておこし便所いかせる特別の申送りをしなければならなかった。
こういう厄介を戦友にかける劣等感のせいもあってか、
前川は何をさせても、動作が鈍く冴えなかった。
三人が三人ともいわくつきというわけであったが、いわくつきなのは三人だけではなかった。
付添った班長の山田がまた、三人におとらぬ、いわくつきの下士官だった。
下士官は年度がわりごとに再志願をする制度になっていた。
が 一般ではそれは例年、書類を出すだけの形式にすぎなかった。
が 山田の場合だけは、それがすんなりいかず、
再役志願のたびに、許可するかしないかが問題になった。
これも酒がもとの不始末が原因だったが、結局は本人の将来を慮り、
将来をいましめて再役許可に落ち着くのだった。
「 人のいやがる五聯隊に、志願ででてくる馬鹿もいる 」
という歌は、聯隊番号を自分の聯隊のものに替えて、全国の兵隊にうたわれたものである。
志願ででてくる馬鹿、というのは、
徴兵適齢まえ、満一八才で志願して入営するもののことをいったものだが、
下士官志願で軍隊に残るものを、風刺揶揄したものだった。
その人のいやがる軍隊だが、山田のような当時の農村出の青年にとっては、
下士官になって軍隊に残ることは、単なる口減らしの目的からだけでなく、
誇りの持てる安定した就職口だった。
下士官をやめて、これよりましな職場がほかで滅多にみつかるものではなかった。
本人の将来を慮るとは、このことであり、
酒さえ呑まなければ---と 将来をいましめて再役許可の判をおすわけだったが、
その都度山田も、酒をつつしむことを涙までだして誓った。
が、ほとぼりがさめての気がゆるみから、性懲りなく同じ不始末を仕出かしてきた。
仏の顔も何度とやらだが、それが三度をすぎて、四度五度となり、ずるずる年功が重なって山田も、
このころでは機関銃隊でも古参株の軍曹になっていた。

仏の顔が三度すぎて、なお山田が下士官にとどまり得たのは、
酒さえ呑まなければ---と 思わせる取柄のようなものが山田にあったからでもあった。
それを証拠立てたのが満洲事変での設営だった。
戦地での設営は戦闘ちはちがった才覚がいるものだが、山田に設営を任せておくと、
疲れた兵隊を徒らに路上にさらすことなく、手際よく休息につかせることができた。
もめごとのまとめ役も山田の取柄のうちだった。
駐留中は、互に気がすさんでいるから、軍隊側と民間側とで、酒の上のまちがいから、
もめごとがおこりがちだった。
こういった場合、山田が居合わすと、双方をまるくおさめてくるわけだった。
たずねてきた除隊兵が除隊兵なら、下士官も下士官ということだったが、
この四人も、もともと悪い人間ではなかった。
軍隊が要領を本分とするものであるならば、
この四人はそろいもそろって要領がわるいということでもあった。

次頁 末松太平 ・ 赤化将校事件 2 に 続く


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