遊煩悩林

住職のつぶやき

念仏教団のタブー

2011年02月05日 | ブログ

「親鸞をかえせ!」とは、浄土真宗教団がかつてご門徒から突きつけられた叫びで、いま現在も教団がそれにどう応答しているのかを問い続けていることばです。
その叫びは、親鸞の仰せにないことを「仰せ」と称してきた教団に対してです。
その反省を踏まえてなお「充分ではない」という厳しい自己批判とともに、ご門徒から親鸞を奪ってきた歴史に学ぶ取り組みがされています。
しかしそこに神経を尖らせるがあまり、教団内外の多くのところで親鸞が語られる中で「それは親鸞じゃない!」と一蹴してしまうようなことがあるとすれば、また親鸞を教団組織の中に閉じ込めていくことになります。
教団内で語られる親鸞と、教団の外で語られる親鸞にはまだまだ埋められない溝があるようにも感じます。
言い換えれば、手の届かない遠い偉大な存在と現代の苦悩に寄り添う身近な存在といった感覚でしょうか。
また、教団組織における視点と、組織の外側の視点とも隔たりを感じます。

宗派の外郭団体の機関紙に親鸞聖人の木像の写真を掲載したところ印刷済の1000部がボツになりました。著作物に係る問題は覚悟していましたが、理由は御真影の扱いが軽いということでした。
「親鸞展」のチラシが世間に出まわる今日においてです。だからでしょうか?
http://www.shin.gr.jp/shinranten.html
http://www.shinranten.jp/

親鸞に注がれる「目線」は多様化してきています。
それは宗教的教主としての「宗祖親鸞聖人」としてだけではなく、思想的研究対象としての「人間親鸞」とでもいうのでしょうか。没後750年、教団の枠を超えて親鸞の思想の可能性を探求する取り組みやイベントが開催されています。
2月6日に六本木ヒルズで開催される「親鸞フォーラム」では、解剖学者である東京大学の養老孟司氏、青山学院大学の生物学者 福岡伸一氏と大谷大学の仏教学者 織田顕祐氏によるシンポジウム、東京大学の東洋文化研究所では経済学者である安冨歩氏を中心に「親鸞ルネサンス」が開かれています。
「親鸞をかえせ!」というご門徒の叫びとは質が異なるかもしれませんが、親鸞を教団に留めるのではなく、さまざまな分野に開かれるという観点では、その願いは通じるのかもしれません。ただしそれはあらゆる世界に、そしてすべての人類に対してということを前提としてです。
「親鸞ルネサンス」東洋文化研究所 http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/news/
「親鸞フォーラム」真宗大谷派 http://shinran-forum.jp/index.html
親鸞フォーラムはすでに550名の定員を満たしたそうです。
お寺の行事の参詣が減ったと悲観的な声がよく聞かれますが、人は寺を求めているのではなく教えを求めているんだとつくづく感じます。組織や寺の維持が目的になると寺は持たないのでしょう。
くどいようですが、慶応大学の経済学者 中島隆信氏は、現在76,000ある寺院は50年後に6,000にまで減少すると言います。たとえそうだとしても、もしかすると50年後の親鸞聖人800回御遠忌は、組織から解放されたところでもっと盛大にお勤まりになるのかもしれません。

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鬼の告白

2011年02月01日 | ブログ

一年の精神生活の締めくくりであり、また出発でもある報恩講。
常照寺の報恩講をご門徒と勤め、多くの反省を噛み締めつつ新たな一年がスタートしました。とはいいつつ、一大行事としての報恩講を勤め終えるとやはりヤレヤレ。ようやく正月が来たと、おらが春を謳歌しようとした矢先・・・長男(5歳)がインフルエンザの診断を受けました。

真如の月ですが、世間で2月はオニガミさまをお迎えする季節です。

鬼はそと 福はうち

コンビニやスーパーでは早々から寿司ロールのチラシや鬼の仮面が珍列?しています。
子どもたちの通う幼稚園でも、鬼の準備がすすんでいるだろうと思います。
鬼はつまり「都合の悪いこと」、福は「都合の良いこと」の総称です。
赤鬼、青鬼と世間ではいろいろな色の鬼をこしらえてきましたが、近年、鬼の種類が多様化しているのではないでしょうか。
かつて節分は、当時まだ得体の知れないインフルエンザなる鬼が猛威を振るわぬように、その邪気を祓い、無病息災を祈る行事だったと考えると、それはどこまでも「村」とか「世間」という単位における「都合」であったと思います。
共同体にとって「都合の悪いこと」という基準ですから、そこに属する村人にとって共通の「鬼」だったのです。
ですからせいぜい赤・青・黄・緑くらいで事足りたんだと思います。
ムラ的共同体が壊れた今日でも「節分」は伝統され、「鬼はそと 福はうち」の精神だけは個々の家庭や個々人のレベルで引き継いでいます。
「都合」が個別化してきたということをいいたいのです。
万民にとって「都合のいいこと」「都合の悪いこと」が共通しなくなったとでもいうのでしょうか。「鬼」を表現するのに「色」が足りなくなったと思うのです。
インフルエンザという鬼にタミフルという豆をまくのですが、豆がよく売れるには鬼が活躍しなくてはならないわけです。
鬼の活躍を「都合のいいこと」とする個と、やはり鬼には退散してもらわなくては「都合が悪い」個と、鬼と福がややこしいわけです。ある人にとっては鬼が福で、ある人にとっては福が鬼なのです。
インフルエンザが何なのかわからないときはそれを「鬼」として、村にそれが蔓延しないために豆を巻いてきた。豆だけではなく、塩を撒く人もあったでしょう。誰にまくか、罹患者が鬼だったんです。「村や世間に都合の悪いものは排除しますよ」と「犠牲」として、また「見せしめ」として機能する、それが節分行事の排他的なところです。
何を隠そう、感染を怯え、子どもを遠ざけようとする鬼の告白です。
「鬼はそと 福はうち」を否定するのではありません。オレさえよければ・・・のその精神でしか生きられない無明を自覚するところに真如の救いのはたらきを見出すことができるのです。

如月のお寺の掲示板には

人いずくんぞ能く鬼神に事えんや

と記しました。

関連

遊煩悩林2010.7.7 http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/d/20100707

遊煩悩林2010.2.3 http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/d/20100203
 

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