遊煩悩林

住職のつぶやき

怠慢

2008年01月06日 | ブログ

Img_4892 2007年の大晦日から2008年の元日にかけての「除夜の鐘」、そのあと引き続いて新年の法要「修正会」をお勤めしました。(写真をホームページにアップしていますのでご覧下さい。URL http://web.mac.com/jyosyoji/
常照寺の鐘楼門が平成9年に仮落慶してから今回で11回目になります。除夜の鐘といえば108回というのが通常ですが、常照寺は例年ご参詣の方についてくれる人がいる限り、108という数にこだわらずについてもらっています。ですから150回の年もあれば、130回の年もあります。有り難いことに?108回を下回ったことはこれまでありません。しかしこの数年130人前後で推移していた参詣者が減少傾向にあります。そして5、6年前に比べるとはるかに若年化してきたような気がします。
そんな中、今回の除夜の鐘はちょうど108人の方についてもらいました。毎年酔っぱらいの私が数えていたのですが、今年は坊守の妹の彼氏に任せました。数とり器を手にした彼も私が最後の鐘をついて鐘楼門から降りてくるとびっくりしていました。
108は煩悩の数といわれます。念珠の玉も基本は108です。
真宗では「不断煩悩得涅槃」と教えられます。煩悩を断ぜずして涅槃を得るのです。煩悩を断つのではなくて煩悩のまま救われるのが真宗の教えです。先日なくなられた永平寺の貫主が「煩悩を制するのが禅の教え」といわれていたことを記憶しているのですが、煩悩のままに救われるのと、煩悩を制するのとでは大きな隔たりが仏教にもあります。共通していることは煩悩を自覚することでしょう。去年も今年も煩悩いっぱいに生きていることの自覚がなければ煩悩を抱えて救われることも、それを制することもできません。
念珠の玉が煩悩をあらわしているとすれば、それを束ねている紐、煩悩のひとつひとつに貫かれている糸は何を意味しているでしょうか?いくつもの煩悩を抱えながら生きている私のそれを束ねて生かしてくれているはたらきを思います。であれば、仏前で合掌する時は念珠をかけますが、それは煩悩を深く自覚せよ、そしてそのまま煩悩を握りしめたまま救われよとの呼びかけであると感じられてきます。

ところで、年が明けて1週間も過ぎようとしている今日になってはじめて、昨年やり残した重大なことを思い出しました。本堂内陣のお鏡餅をお飾りするのを忘れていたのです。ただ忘れていたのでなく、ようやく今になって思い出したところに罪の深さを感じます。
煩悩のまま救われるといいますが、その救い主である如来の荘厳を忘れていては救われようがありません。まことに住職の怠慢であります。お恥ずかしい限りです。
気づかれた方も当然あるでしょう。もし「何かの意味があってお飾りしていないのだろう」と思われた方があれば、これからはどんどん指摘してください。ご門徒の皆様のお寺です。

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