遊煩悩林

住職のつぶやき

永代経法要厳修

2007年06月18日 | ブログ

6月17日(日)常照寺の永代経法要をお勤めしました。
それぞれご多用のところ万難を排してお参り下さいました皆さまに改めてお礼申し上げます。また、25年以上もの間、毎年欠かさずご法話をいただいております荒山修先生には今年もお世話になりました。ありがとうございます。
荒山先生は、名古屋市内の惠林寺の前住職としてだけでなく、本山である東本願寺の教導職を長年つとめられ、また名古屋拘置所の教誨師や中日文化センターの講師など、お寺だけでなく広く社会的にご活躍です。
先生の法話を聴聞するために名古屋からお参りされた方もおられました。
1時から読経をつとめ、2時から休憩をはさんで90分ほどお話を頂戴したいとお願い申し上げたところ、4時を過ぎた頃まで熱のこもったお話をいただきました。
のちに、ご参詣の方の雑談の中で「2時間以上の話を聞くのも疲れるが、話をされるのはもっとお疲れになるんでしょうね」という声があったので控室の先生にお伝えしたところ、「そんなに疲れませんよ」と。それよりも「お話を適当にきりあげて終わりにすることがどうもできないものですから、時間をオーバーしてしまって申し訳ありません」と申されておられました。
法要後、坊守との会話の中で、私たちはお寺に居住してご門徒をお迎えする側だけども、ご門徒の先頭に立って聞法する姿勢が私たちの勤めであることを改めて確認をしたのですが、はたして私や坊守が寺に縁がなければ、こうして仏法に遇う機会に恵まれただろうか?、そしてたとえ縁あって法要や仏法聴聞のご案内をいただいたところで、わざわざお寺に足を運ぶために時間をつくってお参りするような私たちであろうか?ということが話題になりました。
自分自身がお寺の住職や坊守という肩書を取っ払い、現代日本に生きる30歳代の夫婦として考えたときに、お寺とはどういう風に映り、仏法はどんなものに感じるのか、そのような視点に立った時、今回「永代経法要」のご案内を申し上げてご聴聞に来られた皆さんにこころから「ご苦労さま」であると感じます。
「暇ができればお参りさせてもらう」という声をよく耳にしますが、なんか私自身のこころを表しているような言葉であると反省させられます。「暇」だから寺に参っているなんていう人は一人もおられません。「暇」をつくって、もしくは他の用事をやりくりし、またはそれらに優先して参っておられます。参詣各位の見えないところでの聞法の姿勢を思ったときに、それらの皆さんをお迎えする私たちのおもてなす態度や言葉が不十分であることをつくづく感じます。

つづく

法要の写真を一部ではありますが常照寺のホームページに披露していますのでご覧下さい。
http://homepage.mac.com/jyosyoji/
■常照寺年間行事■→■永代経法要■→■2007年永代経■の順にClickして下さい。

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