この国はどうなっていくのか。その舵とり役を選んだ私たちはどこに行こうとしているのか。
何年もせぬ将来に、こんなはずじゃなかったということばは言いたくないし聞きたくない。
ほら言わんこっちゃない!とも。
選挙が終わって、行き先を告げぬ船に乗ったような感覚が率直な感想です。
ミステリーツアーは帰ってくる場所があるからミステリーなのですが。
周囲では、選挙結果に「あれ?」というリアクションも聞こえてきます。
先のイギリスの国民投票も、結果を見てから「もう一回」という声があがったそうですが、今回の選挙の結果を見て、もう一回投票し直したいという人もいらっしゃる。
選挙に夢中になっている頃、永六輔さんが亡くなっていたとの訃報。
どんな世にあっても上を向いて歩めと。永さんの言う「上」をどこに設定するかだ。
51対49の多数決のあり方に見る民主主義の限界、あからさまな格差に見る資本主義の限界、そしてそこから派生してくるテロリズム。
私たちはどう生きたいのか。
数日前に大切な仲間たちに声をかけていただいて奈良に出かけました。
興福寺で開かれた「聞法会」のテーマは
「真宗」を批判する真宗
修学旅行以来の奈良を訪ねました。
興福寺といえば真宗門徒にとってまずピンとくるのは、のちに「承元の法難」へと発展していく「興福寺奏上」が思いあたります。
承元の法難 https://ja.wikipedia.org/wiki/承元の法難
興福寺奏上 https://ja.wikipedia.org/wiki/興福寺奏状
「念仏の教団を弾圧した興福寺」という先入観。そんな感覚などお構いもなく興福寺に黙って迎え入れられ1泊2日お世話になりました。
講師の佐野明弘さんはお話の冒頭、「現代という時代は近代の発展的形態ではなく、その崩壊の姿であろう」と。
そして「近代的自我のかかえる業は国家のあり方を孕んで深い闇を露呈していて、それを超克しようとしてきたことの結果、近代的自我の闇の深さがいよいよ鮮明となった(「光闡坊」安居の案内文参照)」という。
近代的自我を「土」のない孤独と空虚、と具体的に示された。そして近代的自我の終焉とは、と。
「土」は大地といってもいいのでしょう。大地を失ったことを指摘されればそれを回復しなければという意識もはたらきますが、その意識の出発するところがすでに孤独と虚しさに立っている。
孤独と虚しさは拠りどころを求め、帰属意識が強い。「義」を立て、その大義名分によって「役」を付与し、その「責任」によって、果たすことを「生き甲斐」として「善」を構成していく。
この「善」に従わないものは「悪」として排除する。「国家」というシステムは「土」にはならないと佐野さんはおっしゃいます。
「仏土」を回復しようという私たちもまた、根底は近代的自我に支配されて、真宗を義として立て排他的に閉じこもっている。同時に真宗や仏教を握りしめて自分たちの運動原理に利用することで仏さまの願を、人間の願におとしめている。
「義なきを義とす」のが真宗です。
まさに立つところがない場を自己はどうやって引き受けていくのか。
もはや自己も自我も問うことをあきらめ、人工知能に委ねていくところにきている。
興福寺は法相宗と言いますが、別名は唯識宗。
運慶が彫った天親菩薩像(国宝)が安置された北円堂で土砂降りの朝、願生偈を勤めさせていただいて大いに刺激を受けました。
真宗に閉じこもってそれを利用し、救いを求めることにさえシラけていることを言いあてられた私が、歩んでいく道として、宿題もいただきました。
『懺悔道としての哲学』https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/4/3369420.html
暑い夏に重たい一冊ですが。
懺悔道-Metanoetek-メタノイア-ノイアを超える-自己の突破-回心(講義メモ)