goo blog サービス終了のお知らせ 

遊煩悩林

住職のつぶやき

問いのはじまり

2025年03月15日 | ブログ

 

http://jyosyoji.info

 

お別れは終わりでなくはじまり。

この私に何がはじまっていくのか。

 

彼岸は宗教の世界、つまり精神界だが、人間の物理的方向になぞらえて「西方」と。

仏教の世界観として、太陽が没する方角に、いのちが還っていく方向を示すところに救いが表現されている。

そこで、彼岸の世界から問われる。

人は死んだ後に救われると思っていないか。

だとすれば死後の救いとは何か。

果たして死んだ後に救われたいのか。

仏教は生きているものを救うとすれば。

生きているうちに救われるとはどういうことか。

私は救われたいのか。

救いの対象は一体誰だったか。

仏はなぜ私を救うというのか。

親鸞聖人は「悪人」と明確にされる。

明確なのだが、それが「じぶん」であることが明確にならない。

なぜ自分が救われなければならないのか。

差別問題を宗教的課題として確かめる貴重な機会をいただいた。

その視点から。

「差別からの解放」とは。

被差別者が救われると思っているのではないか。

では、差別者が救われるというのはどういうことなのか。

彼岸の救いは、「被」も「加」も、ともに救う。

「被」と「加」の救いが同時に成り立つという世界。

逆にいえば、差別が成り立たない世界をいうのか。

いや、「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という経言からすれば、

彼岸における「差別」は対立構造にない関係性を保っているということだ。

それは互いが尊重し合い、敬いを持って関係するという世界の表現だろう。

 

お別れは終わりでなくはじまり。

少なくとも、問いがはじまった。

問いしかないが。

ともに彼の岸にたずねてまいりたく存じます。

 

コメント    この記事についてブログを書く
« 勧誘 | トップ | いのちの根っこ »

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。