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遊煩悩林

住職のつぶやき

恩を知る

2009年01月31日 | ブログ

ご報告が遅くなりましたが、先週末、常照寺の報恩講を賑やかにお勤めさせていただきました。ご参詣の方、またご懇志をお届けくださいました皆さまに改めてお礼申し上げます。また、法中各位、連日の法話にお越しいただいた片山寛隆先生にはお忙しいなかご参勤いただきありがとうございました。
さて、片山先生には連日の法話のなかで、「私」という存在を問わされました。
初日は、犬養毅元首相の孫で難民の子どもたちの支援を行っている評論家の犬養道子さんのエピソードを取り上げて、「三悪道」のなかにどっぷり浸かる「私」を知らされました。
犬養さんはカトリック教徒だそうですが、大切にされる3つのことばとその持つ意味から「地獄」「餓鬼」「畜生」という、仏教でいう「三悪道」に通じるところをお話しいただきました。
大切にされる3つのことばとは

「ありがとう」
「ごめんなさい」

そして

「いかがですか?」「どうですか?」

ということばで片山先生は表現されました。
かつて宮城顗先生が、同じ犬養さんのお話をされたときは、この「いかがですか」というフレーズを「Please」というフレーズで説明されていました。相手を尊重しつつ自分に何かできないかを申し出る時にプリーズという言葉を使うのだそうです。この3つの言葉さえ覚えていけば、どんな国に行っても真に人と交わることができるのだと、ご自身の経験をとおして述べておられたそうです。
仏教では「地獄」「餓鬼」「畜生」を「三悪道」といいます。三悪道は決して死後の世界をいうのではなく「人間が人間として出遇えない世界」を意味しています。その三悪道には、この3つの言葉がないわけです。
「ありがとう」のない世界は餓鬼。どれだけ満たされても「ありがとう」と喜ぶ心がない。もっともっとという要求ばかりが餓鬼の世界です。
「ごめんなさい」がない世界が地獄。互いに相手が悪いと、自らの正義を主張するわけですから、どこまでも譲り合うということがありません。
そして「Please」がない世界。相手にとって必要なことをしてあげたいとおもう心のない世界を畜生と教えられます。常に何かに寄りかかり、人をあてにして、人の批判ばかりで自立できない在り方を畜生という言葉で教えられました。
2日目の法座では、そのような存在であることをなかなか気づくことのできない私たちを哀れんで、智慧の光明を放って照らし出してくれているのが如来の大慈悲であることをお話し下さいました。障子の隙間から射し込む太陽の光がちょうど部屋のなかの埃や塵を照らし出すがごとく、です。
さて、両日の法要で「私」こそが餓鬼・畜生として地獄を歩むものであり、塵や埃のような存在であることを教えられたわけですが、それが自分のことだと頷けるかといえば、なかなかであります。現に最後までご聴聞された皆様方からはそれを深く合掌して頷くのではなく、わかりやすくお話をされたことに対する「拍手」が起こりました。せっかくご聴聞された方に対してご批判申し上げるのは大変失礼なことでしたが、仏教の法座では拍手でなく、深く合掌してみ教えをいただいてくださいと申し上げました。やはり、私を畜生と呼び、塵・埃といわれているにもかかわらず、それが我がこととして自覚できないところの証明があの拍手であったのではないかと感じています。
それが私の本当の姿であったと気づかされたときに、本当の意味での「ありがとう」と「ごめんなさい」という気持ちが仏前に向かわせ、合掌というかたちをとって、そのことに気づくことのない人生を危うく送るところでしたと、人間と人間が傷つけ殺しあっていく生き方でなく、「Please」と、真に敬いあっていく生き方を願わせる、つまり浄土の願う姿となるのではないかと考えさせられました。
そんな私の姿にであったときにはじめて、宗祖親鸞聖人のご苦労が「恩」として感じられてくるのではないでしょうか。逆に言えば、自らを餓鬼や畜生として受け入れ、頷いてはじめて「恩」に報いていくような一歩一歩が歩み出せるのでないかということです。そうであれば、本当に恩に出遇うということがいかに難しいような「私」であるかを改めて知らされます。

ところで法要後、懇親会の場で、例の「拍手」が話題になり、そこから法要に参詣するときの行儀作法についていろいろ意見が出ました。行儀的には法話後の態度は拍手でなく合掌、御文の拝読は頭を下げて・・・などなどですが、それは事前に説明しないのがいけない!という意見がありました。それに対しては、それはこちらが強制する行為ではないことを、そういう行儀作法が寺や家庭で受け継がれていないということを自己批判として申し上げました。ただ、すでにおじいちゃんおばあちゃんといわれる方々が、この行儀を「知らない」わけですから、家庭内で、ましてや同居していない子や孫に伝わるわけはありません。
今回は、法話に内容に照らして決して拍手して喝采するべきないところでの拍手でありましたから、一言申し上げたのですが、今後そういった行儀作法についても強制するわけでなく、かつての聞法者はこのような態度でありましたと、ともにそこから学んでいきたいとも思います。そういう先人方のご恩もひとつの課題としていただいた報恩講でありました。

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