例年であれば、外宮さんへの初詣の車列で渋滞する常照寺の門前。
三箇日の神宮周辺の人出は7割減だとか。
常照寺の除夜の鐘は50吼ほど・・・。
神宮にお参りする禊ぎとして、煩悩を払う意味での除夜の鐘が機能していたということか。
知らんけど。
正月恒例の首相の神宮参拝も延期され、毎年、交通規制による渋滞下、動かぬ車中から山門脇の掲示板を眺めてくださるような光景も今年は見られませんでした。
神も仏もあるものかから本当の宗教がはじまる
遠藤周作
残念ながら、目に触れる人の数は例年より少ないですが、今月の掲示板に書き出しました。
お寺に参る人、神宮に詣る人、また地域の方々に向けて、そして自分自身に対して。
昨年、コロナ禍にあって様々な聞法会や研修会、学習会が中止になり、しんらん交流館が「いま、あなたに届けたい法話」として、インターネット上に法話を配信しました。
その中に、同朋大学名誉教授の池田勇諦先生の「”我欲手伝う仏”在さず」と題したお話の中で紹介されていたクリスチャンのことばの引用です。
厳密には、『私にとって神は』という書物で、遠藤周作さんが指摘された内容を、池田先生が表現されたものです。
詳しくは下記のページからご覧いただけます。
いま、あなたに届けたい法話 https://jodo-shinshu.info/2020/06/08/24190/
神仏とどのように向き合っているのか。
この時期、初詣された方にマイクを向けて、「何をお願いされましたか?」というインタビュー。
聞き方っ!!といつも思う。
何かお願いするしかなくなる。
お盆などの報道はもっぱら「先祖の冥福を祈る光景」として描かれる。
こうしたメディアの感覚は知らず知らずの洗脳とさえ思えてきます。
寒中。ほどなく節分ですが、自身「鬼は外、福は内」の精神構造で年中過ごしている。
都合の良いことだけを求めて、そうでないものを排除したい。
それらは宗教的なようで宗教ではないというのでしょう。
占い・呪いの迷信の類と言っては言い過ぎか。
”占いアプリで高額被害”という記事も年明けに見た。
我欲を手伝う仏さまは存在しない。
私というのは仏の願いを受けとる器であって、こちらが要求するのではない。
「本当の私となってくださるもの」、それが「まことの仏」である、と。
ほとけさまのほんとうのお姿を教えられることで、鬼と向き合う生き方が開かれてくる。
「本当の宗教がはじまる」というのは、鬼を退治して福を得るのではなく鬼との「対面」であろうか。
ほとけさまが私になってくださることではじめて、私そのものが鬼であった、と。
鬼性の自覚とその克服の歩み。
知らぬ間の洗脳的迷信が破られてようやく、はじめての「初詣」になるのだろう。