さて、桑名別院を会場に開催された南勢1組の真宗入門連続講座での講義では、主に釈迦の「成道」「涅槃」について尾畑文正同朋大学教授からお話をいただき、そこから「私たちが一体何を依りどころにして生きているのか」という問題を提起していただきました。
ま
すます人が「霊の宗教」に惑わされてきている今日。「前世」や「先祖」や「霊」を持ち出してきて「今」という現実を転嫁し曖昧にしていく信仰ともいえます。
私自身の責任を他のものに転嫁していくそういうあり方を尾畑先生は「生きることの責任を見失わさせる霊の宗教」といいます。そんな責任転嫁の教えを無意識
に受け入れて依りどころにし、それで自分が「正しい」と思い込んでいる姿。そんな「自己の底知れない無明の闇を破るのが釈迦の正覚の一念」です。
「現代の聖典」を学ぶことによって私たちは、経典に描かれている事柄をただ単に「知る」のではない。王舎城の悲劇の物語を「知る」ことが目的ではなく、「自らを『正』として生きている私のあり方を問いなおす」ことが私たちの学びであることを教えられました。
「本物に出会わなければ偽物が分からない」といいます。真実の教えを依りどころにしなければ、いつまでもどこまでも真実でないものに振り回され続けるしかないのです。
真
実がはっきりしなければ、それまで自分が正しいと思って依りどころにしてきたことを捨ててしまうことなどできません。それはそのまま自己の否定だか
らです。それどころか、過ちに気づきながらもそれまでの依りどころを捨てきれずに意地になって過ちを繰り返し続けるのが私たちの姿ではないでしょうか。「私は正しい」なんていう思いほど危険なものはないのでしょう。みんな「自分が正しい」のであれば争いが起こらないわけがありません。
「自己」は肯定し、認められたいものです。ですが「私は正しい」とは胸を
張っていうことはなくても、たとえば「私は何も悪くない」とか「悪いことをした覚えなどない」といった無反省、無自覚も自らを「正」とする立場にかわりは
ありません。自らを「善」とする者のことを尾畑先生は「愚民」と表現されました。そして愚民化の先には戦争があるといいます。戦争は「明日から始めます」
というものではなくて、愚民化政策という姿としてすでにはじまっているのです。
真宗門徒は『愚民」とならず、『愚者』となって往生する
親鸞が伝えてくれた釈迦の教えを正しく聞くということは、私の愚民性を自覚するということでもありましょう。自らを「正」とせず「善」としない、そのあり方を「愚者」と教えられるのではないでしょうか。
さて、特伝はいよいよ次回からテキストである「現代の聖典」に入っていきます。そこで予習として先生からひとつの視座をいただきました。
それは王舎城の悲劇に描かれている葦堤希夫人のことばです。夫人が自らの子どもによって幽閉されて釈迦に言うセリフです。
われ、むかし何の罪ありてか、この悪子を生ずる
このことばは「私は何も悪いことをしたことがないのにどうしてこんな目に遭うのか」というありったけの愚痴です。この言葉を自分自身の言葉として学んでいきたいと思います。
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