年賀状の支度をしつつ。
今年中に届いた「喪中はがき」をめくりながら。
あの方もこの方も。
世話になった方々を偲ぶ。
そのお一人おひとりのお育てに深謝しつつ抱くひとつの違和感。
「喪中だから年末年始の礼儀を欠く」と。
世間的儀礼といってしまえば、それまでなのですが。
年末の「歳末勤行」と年始の「修正会」のご案内をご門徒の皆さまに差し上げたところ。
「喪中ですがお参りさせていただいてもよろしいですか」とのお尋ね。
「年末年始の挨拶は差し控える」
「初詣は控える」
という服喪感からのお問い合わせなのでしょう。
そもそもが年末年始のご挨拶を欠かしてはならないという時代でもない。
「年賀状じまい」の世だ。
そんな世にありながら。
違和感というのは、「喪」に「穢れ」がつきまとっているところにある。
それはどこまでも「死」と「穢」と決別できないところからの発想だろう。
生は偶然 死は必然
かならず訪れる「死」に、「穢」を伴わせるか、「浄」なるものを見出すか。
それによって亡き人の行方が変わってくる。
同時に「生」の意味が変わってくる。
私の生き方が変わってくる。
祇園精舍の鐘の声 諸行無常の響きあり
娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
『平家物語』
伊勢の精舎の鐘の声を何と聞くか。
どうぞどなたさまもお参りください。
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