遊煩悩林

住職のつぶやき

醍醐味

2006年02月28日 | ブログ

2月が28日までなのはよく分かっている。
それでも明日から3月を迎えるかと思うといささか心もとない。
そんな消化不良感は、来月に持ち越したことが多すぎるせいかもしれない。

一日いちにち、時がくれば日が暮れるのだが、毎日明日の準備をしてばっかりいてその時を本当に大事にしていないことがある。「明日は明日は・・・」「次は次は・・・」といいながら予定をこなす毎日ではあるが、その毎日が過ぎると「今日はどんな一日だったのか」などと反省する暇を持っていないのである。
当然、今月は知らん間に過ぎていった、となる。
今月が知らん間に過ぎていっただけではない。毎日、毎時が問われているのだ。
昨日の夜何を食べたかさえもすぐに思い出せない有り様である。

焼肉に行く日などは「今晩は焼肉を食べる」ことは忘れない。
しかし食べてしまえば翌日には思い出せない。調子にのって酒量が増すことも原因のひとつ。
妻が言う「お酒を飲む人は、飲めない人をかわいそうだというけれど、酒を飲んでワッと騒いだかと思うと翌日頭を抱え込んでいる人は飲まない人よりかわいそうだ」と。
返す言葉がない。
ムキになって答えた。「飲む人にとっては二日酔も醍醐味だ」と。

週末はご法事などでたくさん酒をいただいた。勧められて断らないことを棚に上げて言うのは何なのだが「住職を潰そう」とするのは良くない。住職本人は自業自得だが、留守の寺を預かる坊守と子どもがハラハラしている。

「二日酔も酒の醍醐味」と開き直ったついでに、酔った勢いでこんなことも言った。「酔った自分も、醒めた自分も自分は自分」。理屈はそうだが、当の本人は我を忘れているのだから自分が自分ではない。自分さえ良ければいいとする我が根性がそこに居る。
人は人との間を生きて「人間」、「じんかん」と読んだ人もある。夫婦でも親子でもその間を生きている。
今年の目標は「間を大切にする」だったことを思い出しつつ3月を迎える。

さて明日は、とある会合で京都に出向くことになっている。泊まりで、夜は懇親会の場もあろう。寺坊に帰るのは明後日、どんな顔で帰ってくるのか。
醍醐味はそうそう味わうものではない。

【醍醐味】1.醍醐のような最上の教え。(天台宗・・・略)
     2.醍醐のような味、・・・略
     3.深い味わい。ほんとうのおもしろさ。
(広辞苑)

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