遊煩悩林

住職のつぶやき

死の準備教育

2015年11月06日 | ブログ

あきらめるな死んじゃだめだ

今朝の中日新聞。一面トップの見出し。
名古屋の男子中学生の自殺を受けて、元ボクサーの内藤大助氏のメッセージが掲載されていました。
他のどんな記事よりこのメッセージを優先することを選択したことに尊いことを感じます。
今後も、子どもたちに向けた大人からのメッセージを随時発信するという。

9月の末に地元で起きた殺人事件。女子高校生が友人に自分の殺害を依頼した。
「生きていても意味がない」と。
生きることに意味を見出せないのは、何もこの子たちに限ったことではない。
誤解を恐れずに言えば、生きることに特別な意味を見出さずに生きている人だってざらにいると思うし、それでも平気で生きていられるのがいまの世の中なんでしょう。
ただその意味が見出せないことが「苦」としてはたらいてくるときが、誰にでもあるのだと思う。
少なくとも、この子どもたちに対して何の手も差し伸べることができなかった大人の一人、彼らに生きることの意味を伝えることができなかった社会を構成していることの、責任とまでは言わないにしても、自覚を促す今朝の記事なのでしょう。
仏教は「苦」の意味を開く教えだと思う。

この世は死の準備教育の場所である

11月のお寺の掲示板に書きました。
いつもチェックしている武田定光さんのブログhttp://park20.wakwak.com/~insokuji/framepage/framepage-jyusyoku.html/2015年9月4日)にあったことばです。
私たちはここになんのために存在しているのかという問いが宗教の課題だとするならば、この言葉にその答えがある。
「死の準備教育」を受けるためにこの世に出生したのだ。
生まれたら死ぬのが道理である。しかしその道理を道理と受け止めることができないところに「苦」が生じる。
実感しようが無意識だろうが人は「苦」を生きている。
私たちはこの世に生まれ出た瞬間に死を約束された。死に往く生命を生きているのだ。にもかかわらず、そのことをあまり考えずに生きているのではないか。
あまり考えないどころではなく、できるだけ考えないように遠ざけていると言ったほうがいいのかもしれない。
人生を平均寿命まで生きてようやく墓や葬式の準備や費用の心配が湧いてくるぐらいといったら言い過ぎかもしれませんが。
寺や墓や葬式の準備は「死の準備」とはいわないのでしょう。
この世とお別れをしていかなければならないという、昔から決まっていたことをようやく自分自身の問題として問うていかなければならないのです。
死の準備をとおして「生」ということが浮上してくるようにも思う。
私たちは亡き人を「極楽浄土に往生された」と表現する。そのことによって私たちの「生」に、存在に意味を与えられる。
とはいっても「教育現場」たる学校をサボり、抜け出して遊んでいるのが私。
なるほど、サボっていることを自覚することができる。「苦」と向き合いたくないのだ。
子どもたちにとって生きることの意味を教えない学校はサボってもいいと思う。生きることの意味を習う現場に行けばいい。
今月は親鸞さまの報恩講である。サボらずに勤めたいと言いたいところですが、サボったまま、サボったなりに現場に身を運びたいと思います。

生まれた意義と生きる喜びを見つけよう
東本願寺

生まれてきたこと、生きることの意味がここにある。

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