遊煩悩林

住職のつぶやき

忘れてはならないことを忘れる私

2012年06月25日 | ブログ

東北別院での情報交換会を終えて、全国からの参加者らと仙台「ブンチョー(国分町)」の夜を満喫した翌朝、眠い目を擦りつつ、三重の仲間たちとレンタカーを借りて石巻へ向かいました。
Img_0891鈍感な私には仙台市内で感じられなかった震災の爪痕を、現地に近づくにつれて、あからさまに目に見えるかたちで知らされました。

まず飛び込んできたのは、モニュメントのごとく計算し積み上げられた瓦礫の山・・・。

Img_0895背広を着た人々を乗せた観光バスがその瓦礫の山々を視察していました。

被災地観光もまた経済支援とか・・・?とはいいますが。

瓦礫の山を横目に走ると、道路には大きな缶詰が横たわっています。
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観光バスが向かった瓦礫の山と逆方向に私達は車を向かわせました。

そこに2時46分から時を刻むことを止めた中学校の時計が目に入り、車を止めて校内を勝手に視察。

Img_0916時を止めた時計が象徴するとおり、そこには新たな時を刻んでいく光が閉ざされたままの惨状がありました。

被災地に赴きながらそのことを忘れ、前夜、多くの被災者に出遇いながらそのことを忘れていた恥ずかしさに駆られました。

前夜のお酒が身体に残っていましたが、そういえばブンチョーで出遇った福島の浜通り出身という二人の若い男女の顔が浮かびました。
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二日酔いの反省と、羞恥心にさいなまれながら学校を跡にすると、どうみてもお寺と一目でわかる大きな屋根が見えたのでお参りさせていただこうと・・・。

誰もことばが出ませんでした。
柱がしっかりと大きな屋根を支えてはいるものの、壁という壁がすべて剥がれおちた本堂でした。
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おそらく山門が建っていたと思われるところには基礎の石だけが残り、おそらく鐘楼堂が建っていたと思われるところには鐘楼も梵鐘もなく、境内の墓地は未だ散乱を極めたままでした。

本堂には、お焚き上げを待っていると思われる2011年3月11日の命日を記しImg_0927た白木の仮位牌がいくつも段ボールに取りまとめられています。

この寺院の山門付近にお立ちになった親鸞聖人の銅像だけは特段の被害を免れて、私達に忘れてはならない問いを発してくださっておられるようでした。

 

今回の東北行きは仙台と石巻だけでしたが、見た目の仙台の復興と、手つかずの石巻のコントラストが印象にのこります。同時に、見た目の復興によって忘れてはならないことを忘れているこの自分を知らされました。

そんな自分を棚に上げ、分限を超えてもうひとつ感じたことは、震災復興の見学ツアーや瓦礫受入自治体の視察などの観光バスは、下から上へと延々と積み上げられてモニュメント化した瓦礫と、いち早く立て直した水産加工会社の工場群をみていくのであって、時の止まった学校や、倒壊した墓、ご本尊のないお寺、打ち上げられた船などには目もくれないという印象を受けました。

 

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実際にこの学校に通っていた子どもたちが今、どこで、どんなふうに授業を受けているのか、このお寺の僧侶・門徒がどのような思いで、今どこで手を合わせておられるのか。
モニュメント化した瓦礫と、バスの向かう方向に、経済的な「復興」という目線を強く感じるのと同時に、そこを見せたいという意図と、そこしか見ようとしない自分を教えられたようにも思います。

問われたのは、「経済的なものさし」でしか被災地をみ見ようとしないあなたたちは、「いのちの復興」という「ものさし」を持っていますか?という問いでした。

 

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