遊煩悩林

住職のつぶやき

無駄がなくなる智慧

2011年06月05日 | ブログ

常照寺では毎月第1金曜日の夜、ご門徒の方々と勉強会を催しています。勉強会とはいっても「おしゃべりの場」です。
毎月、東本願寺が発行する「今日のことば」をテキストにしているのですが、たまたまこの「今日のことば」の6月の法語についての随想を執筆させていただいておりますので宣伝まで・・・東本願寺 TOMOぶっく http://books.higashihonganji.jp/

さてその随想集に、ある方が親子のこんなやりとりを記されていました。

お念仏を大切にされている母親が、息子に「念仏申せ」といった。
息子は「念仏では喰うていけんやろ」と。
そこで母親の口から出たのが「お念仏がないと食べたものが無駄になる」ということばだった。

これを読んで、有名な安芸門徒として有名な望月圭介という政治家の「何のために喰うのかね」ということばを思い出しました。
遊煩悩林2006.8.28 http://ryoten.blog.ocn.ne.jp/jyosyoji/

私たちはいったい何のためにものを喰うているのか。
先の随想には「人は食べるために生きるのか、生きるために食べるのか」とも記されてあり、このことばが目にとまり今月の常照寺の掲示板に

食べるために生きるのか
生きるために食べるのか

と掲げさせていただいたようなことです。

さて、勉強会でさっそくこのことばについていろいろ言われていました。
発題されたご婦人は「生きていれば誰しも必ずこの問いに出遇うのではないですか」と。
一方で「そんなこと考えたことあらへん」「そんなこと考えてどうするんや」というご老人もいらっしゃいました。

「何のために生きているのか」という課題を常に背負って生きてこられたご婦人は、「そんなこと考えてどうするんや」という意見に驚かれたようです。みんな同じ疑問を持っていると考えておられたのです。

「生きる」ということが問題になるのに「縁」が必要なように、問いが問いとなるにも「縁」が必要です。
80年生きてきても縁がなければこの問いが問いになることはありませんし、縁があれば5歳でも10歳でもこのことが問題になるということもありましょう。
考えさせられたのは、その縁が非常に薄くなってきたのが現代ではないかということです。
何のために働き、何のために稼ぎ、何のために儲け、何のために喰うのか・・・
随想集の「念仏がないと食べたものが無駄になる」ということは、いったい何を意味しているのか。
情報や教養が溢れる現代で、知識ばかり得ることに熱中して、智慧を捨てていっているのが私でないでしょうか。智慧があれば無駄がなくなるのです。

お寺の掲示板に「書いてあることの意味がわからない!」と、ちょくちょくご指摘をいただくのですが、大切な問いを問わせなくする時代にあって、お寺から「?」を発信し続けたいと思います。

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