遊煩悩林

住職のつぶやき

蘇民の子か 如来の子か

2010年12月18日 | ブログ

今年も年末「喪中はがき」や「正月の注連飾り」についてのお尋ねをちょくちょくいただきます。?
浄土真宗、いや仏教ではいずれもそぐわない習慣ですから、それらについて「アレコレ」お応えするような立場でも、その資格もないのですが・・・「喪中」も「注連飾り」もその意味がわかれば何も悩んだり迷ったりする必要はありません。?
まともに「喪に服す」こともできない現代生活を送る私たちが、年末にだけ「喪中」を宣言するのはどこか違和感があります。?
「無縁社会」ともいわれる今日、喪中はがきは遅ればせながらの「訃報」を、喪主の知らない故人の有縁の方々に伝える手段として役立っているのかもしれません。
?ただ、屋外に出ず、他人との交際を避け、殺生を慎み、宮参りを控え、祝い事をせず、慶事には出席しないなどなど、そのような様子もない突然の喪中宣言に「えっ!喪中だったの?」と驚くこともあっていいはずですが、どうも世間ではそんなこともないようです。
?いま「喪中」は「年始のご挨拶を控える」という意としてだけ使われているようです。
?ひらたく言えば「あなたのお家に我が家の死の穢れが伝染しないように正月の挨拶は遠慮しときます」が喪中はがきの内容です。
さて、どうなんでしょう。
?遺族が喪中はがきを選択する理由として「正月を祝う心境ではない」という方もあると思います。その場合は「喪中につき」という文言は省略した方が違和感がないような気がします。?
私がここでいいたいのは、喪中を宣言することは「死の穢れ」を容認し、亡き人をケガレとして扱っていくことになるということです。
?亡き人が穢土のケガレなのか、浄土のホトケなのか、はっきりする必要が私たち一人ひとりにあります。それによって自分の生まれた意味の内容が変化するからです。?
なぜならば、生の意味が「穢土のケガレ」となるためにあるのか、「浄土のホトケ」となるためなのかによって、自分自身の誕生の意味、何のために生まれたかが決定されるからです。?
葬式や仏事は、遺された者の信仰表明です。何宗だからどうするこうするという話ではありません。?好きなようにしたらいいのです。そこに誰かが「バチ」とか「タタリ」とかいうからややこしいだけです。?バチやタタリが怖いからというだけで葬式や仏事をやっているならママゴトみたいなもんです。?ただ、それも亡き人を「バチ」を振るい、祟るような存在に自分たちで仕立て上げて、怖がっている自作自演なわけでしょう。

真宗門徒の欠礼はがきの例文を思案してみました。

本年**月**が娑婆の縁つきてお浄土に還りました
私ども家族は お念仏のみ教えによってお浄土に往生を遂げたといただいておりますが 世俗を生きるものの習いに従い 年始のご挨拶をご遠慮申し上げます
云々

最近は、個人の信仰によって年賀状ではなくクリスマスカードをお送り下さる方も増えてきました。
賀状も喪中はがきも定型の文面ではなく、各々の信仰 が表明されるような挨拶状になり、それを認め合う娑婆となることが「世間」を超えて、熟成した「社会」ではないかと思いました。

ところで、注連飾りについては私はお応えする立場にはありませんし、たびたび「地元の習俗を乱している」と世間さまからお叱りまでいただいておりますから ここでは控えめにしますが、要はあなたは「蘇民の子」ですか?「如来の子」ですか?という問いに「はい私は蘇民の子です」といって注連縄を求めてお飾りするのか、「いいえ私は如来の子です」といって仏壇をお飾りするのかを意思と行動で信仰を宣言し表明するということではないでしょうか。?
伊勢では一年中、玄関の注連飾りをはずさないという風習があります。ただしその家から「死人」を出した場合は注連飾りをはずします。災いが起こらないはずの「蘇民の子孫」に災いがあってはならないのです・・・。?
ややこしい話はさておきますが、日本人の「鬼はそと 福はうち」思想に通ずる習俗です。?そこには「死」はありません。「死」を否定する世界です。「有常」といってもいいでしょう。
?仏教は「無常」を説きます。「死」を受け入れる世界です。
私たちは果たして「有常」を生きているのか、それとも「無常」を生きているのか。
決してどちらかを否定したいのではありません。
「有常」によって「無常」が知らされ、無常の教えによって有常を願う私の根性が知らされてきます。

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