遊煩悩林

住職のつぶやき

誰の首を絞めるのか

2010年12月16日 | ブログ

今年2月に長崎で宗教弾圧について学びました。遊煩悩林2010.3.3~3.4
隠れキリシタンとキリシタン弾圧についてでした。
秀吉の弾圧は江戸時代に引き継がれ、寺は寺社奉行の管理下におかれ「寺請け制度」として、すべての家をどこかの寺の檀家にして、一人ひとりを体制権力が管理するようになりました。幕府の出先機関として寺が機能したのです。
当時の檀家名簿は宗門人別帳といわれます。それをもとに檀家の引越や旅行、結婚の際には、個人を証明する「寺請証文」を寺が発行しました。
宗門人別帳は現在の戸籍の原形です。
そこには、その一家が何人家族で、いつ誰が生まれ、誰が亡くなったか、誰がどこに嫁いだか、どこに旅したかなどなど情報盛りだくさんで、寺によっては、その一家の宗旨(キリシタンではないこと)を証明するために、亡くなった人の法名も記載したといいます。つまり人別帳がそのまま寺の「過去帳」として扱われたのです。そこには当時の制度による「身分」が明記されていました。
明治の体制権力によって仏教が排斥され、戸籍と国民を政府が管理し、制度上の「身分」もなくなりました。
しかしながら、今日まで数えきることのできない差別の苦しみと悲しみの中で、真宗大谷派は「過去帳閲覧禁止」を表明し、その徹底を図り運動し続けています。

前置きが長くなりましたが、三重教区の正副組長会が開催され、その場で異例ではありますが「身元調査お断り・過去帳閲覧禁止」の徹底が確認されました。
過去帳については、現在でも「家系図をつくりたい」や「むかしその近くに住んでいた先祖の戒名を知りたい」、また「先祖の命日を知りたい」などといって言葉巧みに興信所や探偵、またそれ以外の人が閲覧を求めたり、記載事項を聞き出そうとします。
そしていま「法人税削減」というこの時勢において、「税務調査」名目の体制権力による過去帳の閲覧が求められる時代です。
このことがどんな悲しみを生んでいく行為なのかということを、住職だけでなくご門徒とともに共有し、それ以外の方法で寺の出納を明示しなければなりません。
「職務上の守秘義務」という権限が「信教の自由を妨げることがないように特に留意しなければならない(宗教法人法第84条)」のです。
過去帳に布施の金額が記載されるわけもなく、ご門徒の法名が記載されている過去帳の閲覧を要求することは果たして「信教の自由を妨げる」ことにはならないのか、お互いにその態度が問われます。
こんなことを言っているから余計に目をつけ、怪しまれるような世です。
さらには「やましいことがなければ出せばいい」という論調も強い世です。
三重教区はウェブ上で決済できる方途がありますが、その導入については「現金での決済は不正を生む温床となりかねず、現金によらない決済方法に移行するように」という当局の指導によるものだといいます。
お寺がご門徒にご負担いただいている会費についても銀行振込にしてはどうかという要望を多数いただいていますが、「寺に足を運ぶ」という信教上の理由から高齢の方にもご持参いただいています。
それが「不正を生む温床」といって寺に足を運ぶ理由を奪うとするならば、それは「信教の自由を妨げる」行為といっては言い過ぎでしょうか。

とにかく「カネ」にばかりウルサイ時世ですが、それに託つけて信仰課題としての過去帳閲覧禁止運動が不徹底になるとすれば、寺は国に年貢を納めるだけの出先機関で、僧侶はその従業員でしかありません。
この世の論調が誰によってつくられ、いったい誰が誰の首を絞め、その苦しみがどこへ向かい、どんな悲しみとして具体化しているのかという現実を見続ける視点が求められます。

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