遊煩悩林

住職のつぶやき

寺をゴミ捨て場に

2010年04月15日 | ブログ

伊勢市では、家庭ゴミは「戸別収集」というかたちで回収されています。「戸別」ですから、家庭から出たゴミを指定のごみ袋に入れて、玄関先に出しておけば収集車が回収してくれているわけです。
?この秋から、指定された集積所にゴミを持っていく「集積所収集」になる、とその賛否が寺でも話題になっています。
先日、町区長さんが訪ねてきました。?お寺さんの門塀の前に集積ボックスを置かせてもらえないか?ということでした。?応対した妻から話を聞いて、いくら断るのが苦手な私でもこれはお断りせねばと・・・。
市の広報によれば「景観などに配慮し、路上にある資源ステーションを集約し、数を減らします」となっていますが、「資源ステーション」と「集積所」 の理念は全く別のところにあるのでしょうか。
?常照寺の門前は、行事があれば看板が立ち、告別式があれば立花も並びます。?神宮の遷宮行事では寺の門前を行列と観光客、見物客が通り過ぎます。?そんな「人目に触れる」寺の門前をゴミ捨て場にするというのでしょうか。
と、すぐに区長宅を訪ねました。
?以前から市の担当者からその提案を受けていたという町区長は、無理を承知でこれまでお寺に話を持っては来なかったそうです。しかし担当者がワザワザ山門の塀の写真まで撮って、ここでダメならダメという返答をもらって下さいということで寺を訪ねて来られたということでした。
?町区の集積所は区域の公園だけで、お寺周辺の住民は徒歩5分ほどの公園までごみを出しに行くことになるようです。?ただその条件では、戸別収集を廃止する条件である「すべての地域で、住民の利便性や負担を公平にする」というところに引っかかってくるのでしょう。だから区内にもう一ヶ 所、設置できないかということなのだと推察しました。
?それがまた選りにもよって寺の門前とは・・・
?担当者からすれば、誰しも自分の家の軒先がごみ捨て場所になることを望まないことを想定したうえで、寺に話をふったことは想像に難くありません。おそらく寺にかかわるご門徒の存在など気にかけたことはないのでしょう。?
ただでさえ区域の公共事業や遷宮行事では、公衆便所よろしく寺のトイレが使用され、使用についてはとにかく、使い方が非常にキタナイ!と、お掃除されるご門徒からの声があります。「使えないように鍵をつけよう」という声まであります。?そんな中での今回の話ですか ら「門前に集積所を」なんて、私もさすがに言えません。
かといって、私の家庭もお寺も当然ゴミを出すわけです。私たちもご近所の高齢者も集積所が遠いと不便です。
門前の話はきっぱり?お断りしましたが、ご近所のとくに高齢者の意見を聞きながら「寺の裏の駐車場の脇なら」という代替案は持っておこうかと思っています。?
やはり「頼まれると断れない」八方美人のお人好しの住職・・・といったところでしょうか。
?引き受けるのも断るのも簡単ですが、結局それによる「視線」を私は恐れているのでしょう。?
お寺の行事で賑わしかったり、路上の駐車や、駐輪などの迷惑はかけながら、地域の役にはたたない・・・という視線もあると思います。
しかし逆に「この寺の住職は門前をごみ捨て場所にしているのか」という視線は、そのまま「この寺の檀家は自分の寺の門前をごみ捨て場所にしている」 という視線ですし、それは「この町の住民は寺の門前にごみを捨てにくるのか」「この自治体は寺をごみ捨て場にしているのか」という視線といっても言い過ぎではないような気がします。?
しかしその「視線」は、私が勝手に気にしているだけのことで、問題の本質ではありません。?ゴミ捨て場所の話が自治体から来るという社会的なポジションに寺が位置づけられているということを実感させられるのです。「寺をゴミ捨て場にしよう」と いう発想が生じてくることに悲しさがあるわけです。?
それはこの寺が、それ以外の存在意義を市や社会にアピールできていないという証拠だとすれば、発想を転換して・・・門前の見た目はとにかく、責任を持って寺が集積所をかって出て、批判を全身で受けとめつつ、週2回ゴミ出しに来た方と集積所を清潔にするコミュニティを形成し、門前や境内の清掃に加わっていただくとともに聞法会を開催することをとおして寺の存在意義を果たしていく・・・なんて、その「気」が 問われます。?
♪♪その気もないのに無理すんなー♪♪というメロディが響いてきました。

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