遊煩悩林

住職のつぶやき

「物」か「者」か?

2009年10月10日 | ブログ

台風が去った朝、二人のご門徒が、境内の台風土産を片付けにきて下さっていました。おかげで常照寺においての後片付は半日ほどで終了。瓦が何枚か飛んで割れたものの大した被害ではありませんでした。
近くの神宮では樹齢何百年ともいわれる50mの木が倒れて参拝ができなくなったとか。各地で様々な被害があったようですが、とってつけたような「お見舞い」のことばは控えさせていただきます。
組内のご寺院やご門徒の被害状況を取りまとめよ!ということです。ご住職をはじめご門徒の皆さまにおかれては、被害状況の大小を問わずお知らせください。
それにしても、大小はとにかく被害に遭われた方に対してその情報を「集め」「報告する」、見舞の言葉をならべる・・・そんなこともままならない、というか面倒がるような自分自身を、寺を心配して後片付に来て下さったお二人の「おこころ」から知らされます。

「情報を『集め』『報告する』」を、「み教えを『知り』『伝える』」、「被害に遭われた人を見舞う」を「参詣を労う」と、やや強引に置き換えてみると、己の横着な姿がそこにありありと・・・。

さて台風の夜、松阪市内で真宗教団連合の仏教講演会が予定どおりに開催されました。
「自由の敵はわがまま」という講題の池田勇諦氏のお話の中で「『物』か『者』か」というフレーズが耳に残っています。
父母を因縁とする「果」としての「私」は、言い換えれば「頼みもしないのにつくられた『物』」としてしか見出せない。それに対して「自」を因とし、父母を「縁」とするところに「私」がこの世に誕生した責任が生まれる。つまりそれが「者」であるのだ、と。要するに「私」の存在責任の因も縁も父母に負託しているのであればそれは「物」に過ぎず、その「因」が「自の業識」にある事実に目覚めたときに「私」が「何のために」存在するのかが明らかになってくるのであって、その「願い」という責任を生きることで「人間」になる・・・そんなふうに聞かせていただきました。
私は「生物」なのか、それとも「生者」なのか。「物」か「人間」か。その正体を確かめる視座をいただきました。
また、その「何のために生きるのか」という問い方が仏教的課題であって、「どう生きるのか」という「対処療法的な都合のいい答え探し」は新興宗教で充分だと、次々と新興宗教を生み出しているのは、他でもない「私」であるとの厳しいご指摘を頂戴しました。

台風の影響で聴講も少なく、ゆったりと聴聞できて逆によかったなんて、どこまでいっても自分に都合のいいようにしか考えられない私でありました。

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