遊煩悩林

住職のつぶやき

煩悩の質

2009年08月30日 | ブログ

孫ができるまでは、他人の孫の話を聞かされるのが苦痛でしょうがなかったというご婦人。
あきらめかけていた頃に孫ができて、寝ても覚めても孫の話が飽きることも、尽きることもないそうです。「孫の存在が私の幸せだ」というのであれば、孫によって幸せにも不幸にもなる。自分のものさしで孫を支配し、もしくは私の幸せを孫に担わせていくことになりますから大問題ですが、気になったのはそのことではなく・・・・
子をもつ親は、子をもつ親と話が合う。子がない夫婦は、子がない夫婦と気が合う。いくらでもある話でしょう。話題や苦労、悩みを共感できそうなところに私たちは群れてしまいます。他者と共通点を見つけてそこで安心するような体質を持っているということです。逆に言えば共通点がないと安心できないのかもしれません。そういえば「煩悩の質が共通していればいるほど人間の関係は深まる」とどこかで聞いたことがあります。
先のご婦人でいえば、それまで気の合う仲間だったのは、年齢や子育ての苦労、そして子どもの成長と自立という共通した話題があってのことだったのかもしれません。それが、他の皆はおばあちゃんとなったのに「私だけ」孫がない。しかも話題の中心はいつも孫の話となれば、それまでの気の合う仲間との時間が苦痛でしかなくなるわけです。
その苦痛は、周囲からもたらされたとすれば、たとえそれが意図的なものでないとしても、その場はちょっとした共通性を欠く者に苦痛を与え、そこから排除するような性質をもっていることになります。
逆にどうでしょう。あの人には孫がないからこの話題は避けましょう。とかそんな意識がその場にはたらいてたとすればどうでしょう。同情され、可哀想な存在にされたとすれば苦痛は減るどころか益々増すばかりでしょう。排除ではありませんが、逆にそこからいられなくなるわけです。
「あの人には子をもつ親のこころがわからない」だとか「孫がなくてかわいそう」だとか、誰しもそういう場に出会わす可能性を持っています。私たちの日常はさまざまな条件によって集い、集団や団体に組織されています。問題なのは、その集団が大きくなればなるほど、排除の体質が強まっていくことです。
 その体質が意図的に働いたときこそが、まさに人間が人間でなくなる瞬間です。人間が人間であるというのは、自と他の違いを楽しんでいけるところにあるのではないでしょうか。

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