遊煩悩林

住職のつぶやき

火がない

2006年08月04日 | ブログ

夏の暑さが続く。花火大会や各地のお祭りの話題にも季節感がある。先日、祇園祭の話題でもふれたが夏のお祭り行事には火を扱うものが多い。私たちは火、すなわち炎がなければ生きていけない。しかしながら逆に昔から炎によって大火などに苦しめられてきた。火の神を支配したいという願望がお祭りになったところもあろう。
こんなことがあった。
私も妻の父親もタバコを好む。先日妻の実家で食事をいただいたときのこと。1歳の子どもの前でタバコに火を点けると、妻がうるさいのでなるべく2人とも控えているのだが、妻が子どもを風呂に入れに行ったところ、今だとばかりにキッチンの換気扇の下へ2人でタバコを吸いに行った。たまたま私はライターを持ち合わせていなかった。義父のライターはガス欠で火が点かない。数ヶ月前ならば、ガスコンロをひねって火を点けたところだが、妻の実家は数ヶ月前キッチンをリフォームしていわゆるオール電化になっていた。すったもんだでマッチを見つけて一件落着したが、一服する頃には子どもは風呂から上がってきて、ことの顛末を知ってか知らずかニタニタと笑っていた。
あのマッチはどこから持って来ただろうか?
それは聞かなかったが、2階から持って来たのでおそらく仏壇だろう。だとすれば仏さまのおかげで火をいただいたわけだ。
それは半ば冗談としても、最近はオール電化が進み家庭で炎を使わなくても生活ができるような時代になったということである。しかも、それはキッチンやお風呂だけではない。お仏壇も同じである。
お仏壇には輪灯といって、仏壇の上部から吊るされた真鍮のお皿に灯心を垂らして油を燃やして灯明をお荘厳するようになっている。その灯明に火を点ずる手段としてマッチやライターが用いられることが多い。しかしながら、ご門徒宅のお内仏も、お寺のお内仏も、常照寺においては本堂までも電気の灯火である。スイッチひとつで灯明が点るわけである。
「仏壇のお荘厳は生活に密着しているんだなあ」なんてことを、お参り先のご門徒宅で話していたところこんな話になった。
「ご院さん知ってますか?マッチは明治以降のものだよ」と。
「じゃ、それ以前のお灯明はどうやってあげていたんでしょうねー」。
いまの時代、蝋燭でさえ電球で代用されている、お香を燃やす香炉も電気式のものもある。それでもさすがに線香を焚くのには火が必要である。今ではマッチやライターがあれば手軽に火が点くのだが、さてマッチもライターもない時代はどうやって灯明をあげ、蝋燭を点じ、香を焚いたのか?
仏前を正しく荘厳するには、明かりが必要である。ましてや今に比べて信仰があつかったといわれる当時のご門徒方におかれては、お飾りに手を抜くことはなかったことを思うと、火はとても大事なものであったことが容易に推測できる。
朝な夕なに灯明を捧げて勤行をするのが浄土真宗の習慣。灯明が上がらなければ勤行ができないし、炎がなければ炊事もできない。
それは便利でないだけに大切にされてきたのだろうことを思う。だが、その扱い次第ですべてを焼き尽くす代物である。夏の火祭りには自然への畏怖が表現されているのだろう。だが電気を発明した人間は自然への畏怖を忘れかけてはいないだろうか。
ところで、先日1歳になった息子がとうとう歩きはじめた。タバコやライター、灰皿など今まで手に届かなかったものが目新しいおもちゃである。火に畏怖を感じない子どもには、ライターなどまだ手の届かないところにあった方が良い道具である。しかし、なにもそれは子どもだけではない。火が燃えるのは自然のはたらきである。その自然に畏敬の念がない者にはやはり手が届かない方がいい。

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