非国民通信

ノーモア・コイズミ

文化と権威

2014-08-07 22:55:13 | 文芸欄

 かのパブロ・ピカソは晩年に「やっと子どもらしい絵が描けるようになった」と言い残したそうです。もっとも現実の子供にピカソの晩年の絵と若い頃の絵を見せたら、99%くらいの子供は若い頃の絵の方を支持するのではないかと思います。下手をすれば、その辺の美大のちょっと上手い人の絵とピカソの晩年の傑作を見比べさせても、やっぱり前者の方が子供は良い絵だと考えるものなのではないでしょうか。逆に「訓練された大人」こそがピカソの後期の作品を褒め称えるわけです。でもピカソの作だという部分を伏せたら、結局はどうなるのでしょうね。

 まぁ、いわゆる芸術作品に限らず修練を積み重ねて初めて真価を理解できるようになる、そういうものも多々あります。スポーツでもゲームでも研究活動でも、ある程度上達してこそ楽しめるものがあるわけで、現代美術の類の中にはそこに該当するものもあるのでしょう。一方で作者の名声をありがたがっているだけ、傍目には何だかよく分からないけれども権威ある芸術家の作品を賞賛することで「素人には理解できないものの価値が分かる自分」を演出している人もまたいるように思います。ついでに、そういう人との共犯関係を作ることでのし上がるタイプの「芸術家」もまたいるような……

 最近の学生(若者)は本を読まなくなったと、長年にわたって言われ続けています。統計上はそういうものなのかも知れませんが、そもそも現代に比べれば読書量が多かった時代の元・若者も年を取るにつれて本を読まなくなるもの、本を読まなくなることに老若男女の別はないようにも見えます。そして社会の「ニーズ」ですね。日本で社会的地位や職を得る上で読書量は果たして必要とされているのでしょうか。人事権を持つ側が求めているのは、もっと別のものであるように思えます。視力が5.0あればサバンナで狩猟生活を営む上では大いに役立ちそうですが、都市生活においては無用の長物です。それと同じことが日本における読書には当てはまるような気がします。

 それでも、本を読む側の人には結構、偉そうな人が多いなと感じるわけです。これ見よがしに学生の読書量の低下を嘆息してみせる人は数知れません。曰く「本を読む以外では育たないものがある」云々。一見するともっともな発言に見えるでしょうか、しかし「本」を別のものに置き換えても成り立つ言い回しであるようにも思います。例えば「海外に留学すること以外では育たないものがある」とか「体育会系の部活動以外では育たないものがある」「集団生活を送らせること以外では育たないものがある」等々。

 例えば私などはゲーム好きですので、「ゲームをする以外では育たないものがある」とも主張したいところです。実際、間違いではないと思います。ゲーム以外では体験できないこともまた少なくない、そこでしか得られないものもまたあるはずです。そうは言っても「この頃の若者はゲームをやらない、けしからん」と若者のゲーム離れを上から目線で嘆いて見せたとしたら、たぶん世間の共感は得られないのではないでしょうか。あるいはパソコンでもそうですかね、「今時の若者はスマホ専門でマトモにPCが使えない、若者のPC離れは嘆かわしい」と肩をすくめても、やはり賛同者は少ないと思います。

 こうしてみると、なんだかんだ言って読書は今なお一定の「権威」であり続けているんだろうなと感じるわけです。読書が「他の何か」に比べて排他的に優れた経験であるとも私は思いませんが、しかし読書を「しない」人の存在を大仰に嘆く人は結構いるもので、これはよりマイナーで権威に欠ける趣味では望めないことです。まぁ若者の本離れを批判する新聞社が読書家の若者を優先的に採用しているかは大いに怪しいところですが、それでも「もっと本が読まれるべきだ」という前提意識は思いのほか強いのかも知れません。

 しかし、そういう読書の位置づけってのもどうなんだろうなと。果たして本当に本が好きで読んでいるのかどうか。実際のところ権威を身につけるために読書をしているだけ、「私はこれだけ本を読んでいます」というアピールに熱心なばかりの人も見受けられます。そうして、「本を多く読んでいる自分」を無自覚に「本を読まない人」よりも上に位置づけている感じの人もいるのではないでしょうか。本が好きで読んでいる人には好感が持てますけれど、自らの権威付けのために本を持ち出している感じの人は、率直に言って嫌ですね。

 

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無理なノルマの果たし方

2014-08-04 22:56:59 | 社会

大阪府警、犯罪8万件ごまかし 「ワースト返上」うそ(朝日新聞)

 大阪府警の全65署が過去5年間の街頭犯罪などの認知件数約8万1千件を計上せず、過少報告していたことがわかった。府警が30日に発表した。街頭犯罪ワースト1の返上に取り組むなか、件数を不正に操作していた。2010年にワースト1を返上したと発表していたが、実態は違った。処分対象は97人にのぼった。

 

大阪府警:犯罪8万件報告せず 280人処分(毎日新聞)

 大阪府警は30日、警察庁に報告した刑法犯の認知件数を、2008〜12年の5年間で計8万1307件少なくしていたと発表した。全65署が関わっていた。都道府県別の街頭犯罪の認知件数で、全国ワースト1位が続いた大阪府は10〜12年、東京都を下回ったとされたが、実際は最悪のままだった。府警は同日、内規などに基づいて幹部を含む280人の処分を決めた。

 

大阪府警、統計不正8万件…全署で犯罪過少計上

 大阪府警が2008~12年、自転車盗など計8万1307件を犯罪統計に計上せず、犯罪を少なく見せかける不正処理をしていたことが30日、わかった。

 この間の府内の刑法犯認知件数(計約93万件)の1割近くに相当し、全65警察署で行われていた。府警は当時、組織を挙げて街頭犯罪件数の全国ワースト1返上に取り組んでおり、「現場に件数抑制の重圧がかかっていたことが背景にあった」としている。

 警察庁によると、犯罪統計の不正の規模としては過去最大。府警は同日、幹部らを本部長注意とするなど当時の関係者計89人を内部処分した。

 

 大阪府警で犯罪件数を少なく取り繕う不正が行われていたことが伝えられています。処分された関係者の数が各紙で異なっているのはどうしてなのでしょうね。「数え方の工夫」で何かを多く見せかけたり、あるいは少ないものと思わせたりと、そうしたミスリーディングは新聞各社も得意とするところですが、この手の偽りは本来あってはならないものです。しかしまぁ、警察側にもジレンマがある、犯罪件数を抑制したがる一方で検挙数を稼ぎたがる人も目立つ等々、傍目には迷惑な難しさを抱え込んでいるようで……

 

僕がかなりプレッシャー…犯罪過少計上で橋下氏(読売新聞)

 大阪府警が2008年からの5年間に8万件を超える刑法犯を過少に計上していた問題で、橋下徹・大阪市長は31日の定例記者会見で、不正が始まった08年当時の府知事として「偽りの数字だったことをおわびする」と陳謝した。

 不正の背景に、街頭犯罪の全国ワースト1返上の重圧があったとされることには、「僕がかなりのプレッシャーをかけた」と述べ、影響があったことを認めた。

 橋下氏は知事に就任した08年、財政改革の一環として警察官定員の削減案を打ち出したが、府警側は「治安悪化を招く」と猛反発。削減は結局、見送られたが、橋下氏はその後、府警に「ワースト1返上を」と成果を求めた経緯がある。

 

大阪府警:刑法犯過少報告 同一犯は「まとめて一件」(毎日新聞)

 「どうせ同一犯や。まとめて1件にしよ。署長もうるさいからな」

 過少報告が始まった08年のある日。大阪市内の警察署で刑事課長が統計担当の若い警察官に小声で指示した。

(中略)

 「自転車が見つかったら計上せんでええ」「自転車のサドルだけ盗まれたケースは外していいんちゃうか」。上司がこう指示したこともあったという。

 

 府知事(当時)から府警幹部へ、幹部から署長へ、署長から現場の担当へと、とにかく数値を小さくするよう伝言ゲームが行われていったであろう様子が容易に頭に浮かびます。もっともこの辺、大阪府警に限らず日本の普通の会社でも頻繁に見られる光景ではないでしょうか。社長から役員へ、役員から部長へ、部長から課長へ、課長から非正規を含むヒラ社員へと、例えば「売り上げを伸ばせ」みたいな命令が無責任に投げ渡されるわけです。結局、最終的に「何とかする」ことを求められるのは下の人間、上の人間はただただ要求するだけの簡単なお仕事です。

 日本で言われるところの「リーダーシップ」とは、実際のところ「恫喝する力」とでも言うべきものなのかも知れません。部下に対して「結果を出せ」と一方的に迫って押し切る能力こそがリーダーシップで、その能力に不足していると下から「じゃぁ、どうすれば良いのだ、そんな簡単にできることではないのは分かっているだろう」と問われて答えが出せなくなってしまうものです。犯罪を短期間で急減させる特効薬などあろうはずもないことは自明のことですが、そんな無茶が大阪府内の全警察官にまで行き渡ったのは、まさに日本的リーダーシップが発揮された結果であるようにも思えます。

 最近の記事で何度か言及しましたが、日本では非正規すら含めた末端の人間でもマネジメントの意識を持った人が多い、誰もが経営者、管理者の目線で物事を考えがちです。そうだからこそ、上から下へのノルマの丸投げが常態化するのかな、という気もします。下っ端が本当に下っ端の目線でしか考えない社会であるなら上がもっと具体的に方策を示さなければならない、「じゃぁ犯罪を減らす方法を教えろ」「売り上げを伸ばす方法を教えろ」と逆に迫られそうなものです。しかし日本では、下の人間が上の人間の意向を実現するための方法論を自分で考える、それを当たり前のことと受け入れている人も多いのではないでしょうか。だから、上の人間は単純に下へ圧力をかけさえすれば済む、と。しかるに「下」の人間に適切な目標達成の手段が備わっているかと言えば当然NOです。その結果として、結果を好ましいものに見せかけるべく不正を行う人が――大阪府警だけではなく私の勤務先にもいたりします。

 

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留学ごっこも勲章にはなるのだろうけれど

2014-08-01 23:05:36 | 社会

一橋大、留学を必修科目に 18年度以降の入学者対象(朝日新聞)

 「留学しないと卒業できません」。一橋大は、卒業のために必要な必修科目に、海外留学を加えることを決めた。グローバル人材の育成がねらいで、2018年度以降の入学者を対象にする方針だ。

 一橋大によると、約1千人の新入生全員に、主に英語圏の大学で約4週間の語学留学をさせる。在学中に留学しなければ原則卒業できない。帰国子女のように海外での滞在経験がある学生に対しては、別の言語が使われている国への留学などを検討する。

 費用は企業やOB、OGからの寄付金と、国の補助金で賄うが、一部は学生の負担になるという。このため、経済的な事情がある学生向けの奨学金制度も作る予定だ。

 

 ……とまぁ、一橋大の偉い人達が上で伝えられているようなことを思いついたようです。たかだか4週間ばかり海外旅行した程度で「グローバル人材」とやらに近づけると信じているのなら、まずは一橋大の学長辺りを40年くらい海外に留学させておいた方が良いのではないかという気がしますね。そもそも4週間程度の留学なんてお笑いも良いところで、語学の勉強になるかすら怪しいものですし、英語力を身につけさせたいのなら英会話学校に通わせれば済む話です。たった4週間の「なんちゃって留学」よりも継続的な駅前留学の方がよほど有益でしょう。

参考、京大は総長の考えが浅はかに過ぎる

 昨年は京都大学でも似たような話題作りが見られたものですけれど、せっかく一橋大なり京都大なり世評の高い大学に入学しておきながら、学ぶことの中心が英会話学校でも得られることであったなら私などは大いにガッカリするところです。もっとも、世間――大半の学生の卒業後の進路である日本の企業が求めるのは、そういうものなのかも知れません。「名の知れた大学を出ていること」と「英語力」は鉄板ですよね。大学で何を学んだかなんて問われないものですから。大学は名声さえ維持できていれば、中身は単なる語学学校みたいなのでも就職予備校としての役割は果たせます。

 引用文中で言及されている「グローバル人材」って、そもそも何なのでしょうね。4週間ほど海外旅行をしただけで「留学経験アリ」を称して、日本の企業(採用)から「グローバル人材」として加点される、そういうハッタリを利かせるレベルの話に終わりそうに見えないでもありません。確かにまぁ、学生からしてみれば「留学を経験しました!」とアピールできれば就職活動の際には大いに役に立つ、採用担当者から見ても有名大学出身者を採用するのと同程度のアリバイは作れそうなものということで、ある意味では役に立つ気はします。でも、そんなのがグローバルなのかな、と。

参考、「働かせる側」は楽なものだが

 上のリンク先では、日本のアルバイトとシンガポール(マイクロソフト)の社員の事例を取り上げたわけです。日本のアルバイトは、たかがアルバイトであるにも関わらず「自分がやらなければお店が回らなくなるし、そうなって困るのは結局、現場にいるほかのスタッフ」と考え、自ら責任を負って働き続けた一方で、シンガポールの国際企業で働く社員は残業を強いた上司に「今度このようなことがあれば俺は会社を辞めるし、お前を決して許さない」と言い放ちました。どのような職場で働いているかを基準とすれば、グローバル人材と呼べるのは後者のはずですが、果たして日本の会社が欲しがっているのはどっちでしょうか?

 日本のデフレ時代を象徴するワタミの企業理念には「社員は家族であり同志」という言葉があるそうです。グローバルな感覚からすれば、あり得ない話にも思えるのですが、どうでしょうね。日本の外の国では、仕事とはビジネスのはずです。グローバルな感覚を身につけた人ほど、働くのは金のため、家族ではなくあくまで契約上の関係と、日本の会社の理念とは真っ向から対立する考え方を備えているような気がします。仕事に対する関わり方がビジネスライクな人材を、日本の企業が積極的に採用する事態というのもまったく想像できないのですが。

 むしろ難しいのは日本のドメスティック人材になることの方です。働くのは金のためではないと信じて全人格的な奉仕を当然視される、そんな厳しい世界が日本の労働環境というものです。雇用が継続される保証などどこにもなければ給料も安い、そんな非正規雇用ですらマネジメントの視点を持ち自分の担当ばかりではなく組織全体の利益を鑑みた行動が要求される、これは日本では至って普通のことですけれど、果たして日本人以外にこれに耐えられる人材がどれだけいるのやら。グローバルな人材なら、もうちょっとマシな環境を求めてヨソに逃げ出してしまうことでしょう。まぁ、「海外留学しました」というハッタリを用意しつつ、その実は4週間のお遊びで基本的には国内でドメスティック人材を養成する、そんな一橋大の企てはグローバルを掲げつつ内実はドメスティックなものを欲する日本企業に合致するものとは言えます。

 

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