非国民通信

ノーモア・コイズミ

ハラヘリヘリハラ

2014-08-18 21:49:11 | 社会

家事ハラは夫婦関係破綻のサイン?(JIJICO)

今、「家事ハラ」という言葉をよく耳にします。「家事ハラスメント」の略称で、もともとは女性の家事労働の価値の低さへの問題定義から生まれた言葉でした。しかし、最近では、家事協力をする夫に対し、妻がダメ出しをするという現象を指す言葉として使われています。

現代は夫婦共働きが増え、安倍総理が掲げる「女性の活躍推進」や雇用均等法等も手伝って、男女の労働に対して差別が無くなってきましたが、まだまだ妻の家事負担が明らかに大きいことは否めません。

そこで各家庭で「夫婦で家事を分担し合おう」というルールが作られるのですが、世の夫の中には「妻が家事をしてくれるもの」という期待を抱いて結婚をする人が多いのも事実です。一人暮らしの期間が長い男性でない限り、ほとんどの男性は、さほど家事は上手ではありません。しかし、子どもが生まれたりすると、妻にしかできない育児の問題が新たに生じ、夫も家事を手伝わないわけにはいかなくなります。

 

 この「家事ハラ」なる用語については、最初に使い始めたと称する人と、それとは異なる意味合いで使い出した会社との間で一悶着あったりもしたようです。まぁ言葉に特許があるはずでもなく、最初に使い始めた人の用法に他の人が従わなければならない道理はないとは思います。そう言えば「フェミニスト」なんてのも昔は「女に甘い奴」みたいな意味合いだったみたいですね。この頃ですと「壁ドン」ですとかネット発のスラングでも、全く別の使い方で広められているのもあります。たぶんこの「家事ハラ」も家事を手伝う夫へのダメ出しの方の意味合いで浸透していくのでしょう。

 なお「世の夫の中には『妻が家事をしてくれるもの』という期待を抱いて結婚をする人が多いのも事実」とのこと、逆に世の婚活女子の中には「夫が外で稼いできてくれるもの」と期待を抱いている人も多いと推測されますが、こちらも男女分担で女性も会社に勤めるとして、しかるに女性の側の収入が低くて家計の助けにならない、そういう場面で夫が妻の稼ぎの悪さを詰るようなケースも今回の「家事ハラ」の裏返しみたいな形で想定できます。将来的には、それが話題になるような場面もあるかも知れませんね。果たしてどういう珍名称が付けられるのやら。

 昨今は俄に注目を集めるようになった「大人の発達障害」なんかの絡みで職場における得手不得手を意識した意見も出てきましたが、実際のところは「まだまだ」でしょうか。発達障害であろうとなかろうと、しばしば仕事において不得意なこと、どうやってもうまくできないことが出てくるものですけれど、その場合の対処法はいかにあるべきなのか、人それぞれの長所と短所に応じて仕事を割り当てていくべきだという声もあれば、「できない」人を甘えだの怠けだのと罵倒する人もまた多いように思います。そうした中で気を病む人も出てくる、そこに至るまでの過程で「パワハラ」と認定されるケースも出てくるのですが、では「家事ハラ」の場合は?

 この辺は男性に限らず女性でもあり得ることですが、どうあっても家事がろくにできない人もいるわけです。もし家事が「誰にでもできる簡単なこと」であるのなら、それを「できない」人は結局のところやる気の問題として扱われざるを得ないのかも知れません。一方で家事にも「向き不向きはある」と考えるのなら、誠意はあっても家事は任せられない人というのも考えられることでしょう。専ら「誰もが」家事をできて当たり前、やるのが当然という前提で話が進められることが多いですけれど、本当に「誰にでも」やる気があればできることなのかどうか。企業の人事を動かすような人は、「できて当然」という認識に添って人を異動させるもの、そこで「できない」ようであればしばしば「やる気」の問題として当人が責められるところですが、家事も似たような感覚で語られがちなのかな、と。

 まぁ、発達障害の議論よろしく「それぞれが長所を活かせるような」ポジションでの配置を家庭において当てはめると、往々にして「どちらか」に家事負担は偏りを見せるような気がしないでもありません。家事が苦手な人にまで無理に分担させるよりも、お互いがそれぞれの得意な分野で助け合って行ければ良いなと私などは思うところですけれど、その結果として「片方が稼ぎ、片方が家事」みたいな形になりがちだと想定されてしまうところでしょうか。そして収入を得やすい方の性別が稼ぐ方の担当、そうでない方の性別が消去法的に家の担当みたいな結論になってしまうのなら、「とにかく分担」という声が強まるのは致し方ないのかも知れません。

 まぁお互いの長所を活かし、短所をカバーできるように云々と主張するのも、場面によっては強い反発を買うような気がします。「職場」においては経営側から反発を買いそうなところですし、「家庭」においては「女性のミカタ」な人々から非難を浴びそうなもの、では他ではどうでしょう。例えば食料生産の話です。日本の食糧自給率は低いと、日本独自の計算方式まで持ち出されて喧伝されています。この自給率の低さの源は専ら「家畜の餌」が輸入頼みであるところに起因するのですが、日本で家畜の餌を大量生産しようと思っても、それは無理です。じゃぁ、飼料生産国とのパートナーシップを深めて分業していくべきだと説く人もいないではありませんけれど、少なからぬ人は向き不向きを考慮せずに「自国で賄う」ことを「あるべき姿」と考えているような気がします。

 あるいは国際紛争でも、金のある国は金を出せば、兵のある国が兵を出せば良いかと言えばさにあらず、「我が国も兵士を派遣せねば」責務を果たせないとばかりに考える政治家もたくさんいるわけです。誰もが/あらゆる国が同じようなやり方で何かに貢献する必要はない、それぞれの得意な分野で対価を支払えれば十分だと私などは思いたいところですが、あまりそうは考えられていないのが日本社会なのかなとも感じています。仕事でも家事でも、食料戦争でも紛争への介入でも、それぞれの得手不得手に応じた手伝い方ではなく、誰もが同じように分担することを当然視する、そういう見方が強いのではないかと。

 

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コメント (2)
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