何らかの主張を語るにしても、主張している内容の実現を目的としている場合もあれば、そうでない場合もあります。特に意図するところがない場合、たいていの場合は前者でしょうけれど、そうではなく、主張している内容そのものの実現を目的とするのでは「ない」場合もあるわけです。自身の主張を実現させることではなく、主張を通じて波紋を広げる、それによって何かを訴えることが目的、そういうケースもありますね。
主張をそのまま実現させるのではなく波紋を広げることが目的であるからには、その唱えるところは過激なもの、極論に近いところへと傾きがちです。実際にその極論を実行せよと迫るのではなく、極論を唱えることで社会に影響を与えようとする、そちらが目的であることが意識されないと、少なからず危うい方向に傾いてしまうものでもあるでしょうか。本当にその極論を真に受ける人が続発した挙句、その極論が実行に移されてしまったならば「私もビビる」わけです。
私の場合、学校教育に関してはそういう態度を取ってきました。「人間形成」に著しく傾斜した学校教育を破壊して、「勉強する場所」としての学校を取り戻せ、塾を見習えと、そういう感じの主張を何度か載せてきたわけです。そしてそれとは別に、もう一つ何か極論をぶち挙げてみるなら、こんなものはどうでしょうか。「民意なんぞ糞喰らえ! 民意は無視せよ!」と。
実際問題として、「民意が反映されないから」世の中が良くならないのでしょうか。むしろ私には思われるのですが、「民意を笠に着た」暴政によって今の世の中が形成されてきたのではないでしょうか。「政治を(官僚の手から)国民の手に取り戻す」とのスローガンの元でこそ、今の政治は形作られてきたのです。その政策が必要なのかそうでないのか、有益なのか害があるのか、そういった論点以上にモノを言ったのは「民意」でした。「必要な政策かどうか」ではなく「民意があるかどうか(国民の支持のある政党・政治家の政策かどうか)」が万能の基準になっているとしたら、その「民意」の中味も厳しく問われなければならないでしょう。
中国と北朝鮮、アフガニスタンやイラク、ソマリアにジンバブエ等と並ぶ死刑存置国である日本は当然、国連機関からの廃止勧告も受けるわけですが、そうした勧告を突っぱねる理由として使われてきたのが「国民世論の多数が凶悪犯罪については死刑もやむを得ないと考えている」「わが国は凶悪犯罪に厳しく当たるべきだというのが世論の大勢だ」「死刑制度は国民に支持されている」といった口実でした。なるほど、これは嘘ではないでしょう、たしかにこの国では死刑制度は国民の賛意を受けています。だから、国民の声によく耳を傾けるべきだ、というならば死刑制度も頑として維持、推進していかなければならないことになるわけです。
ならば、国民の声など無視しましょう。暴君が「私は府民の支持を得ている」といって無理を押し通そうとするならば、彼を支持する有権者の声そのものが誤っているのだと、そう言いきってしまいましょう。民意など、ゴミのようなものです。
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しかるに、あくまで「民意は正しい」という前提に基づいて行動「したい」人もいるようです。確かに、民意は正しい、民意に添って政策等が決定されるべきであり、それが最善であるとするのが民主主義の建前ですから。そして結果が伴わない場合は、有権者の選択に責を求めるわけにはいかない、何か代りの「犯人」を見つけなければならないことにもなります。ゆえに、上手く立ち行かないのは「民意が反映されていないから」あるいは「(世論調査の結果は)マスゴミの捏造である、偏向報道であり、民意の現われではない」等々、そして「(有権者は)騙されているだけだ」などといった説明付けが為されることになるわけです。
有権者が他人のクビを絞める(それは巡り巡って自分の首を絞める)ような選択を望んでいるのではなく、あくまで「騙されている」だけだと。なるほど、意図して有権者が悪意ある候補に投票しているとするなら、その有権者の責も厳しく問われねばならない、有権者を「加害者」として扱わねばならないことにもなります。しかし「騙された」のだとすれば、加害者ではなく「被害者」として扱うことができる、国民=民意を無罪放免できるわけです。民意は正しいとする世界設定を守るためには、そうした方が都合がいいのでしょう。
こういう考え方は日本の民主主義においては根強い一方で、ドイツの戦後問題などではかなり否定的に扱われているようです。「(我々は)騙されただけなのだ」と言って自らを免責することが果たしてどこまで許されるのか、被害者面して自らの加害の責任から目を逸らしていていいのか、そう問われるわけです。そこで日本の有権者はどうでしょうか? とりわけ熱心に小泉/自民党を支持してきた、いわゆるロスジェネ世代などは、被害者であると同時に、その加害の責任をも見つめ直す必要があるのかもしれません。何が小泉/自民党の暴政を可能たらしめたかは忘れてはならないでしょう。
先の千葉県知事選挙では自民党支部長の森田候補が「完全無所属」を自称していました。確かに、彼は嘘を吐いていました。しかしその支持層を指して「騙されたのだ」と言い切ってしまうとしたらどうでしょうか。新聞でもテレビでも、森田氏が自民党の推す候補であることは明記されていました。ただ本人の自己申告だけが「完全無所属」だったに過ぎません。そういうレベルで「騙された」人って何なのでしょう? 馬鹿なの?
国民を「騙された」ものとして扱うことは、それだけ国民を「愚か」なものとして扱うことでもあるはずです。国民を、意図して悪意ある政治家に投票した加害者と見なすのではなく、ただ騙されただけの被害者と位置づけるのは、刑事事件に擬えれば被疑者を「責任能力のない」ものとして扱おうとするようなものです。つまり、治療の必要な患者として扱うのと同じことです(治療の必要性は否定しませんがね)。
問題のある政治家/政党を支持する人々を指して「騙されている」と語る人は傲慢です。あいつらは騙されているが、自分は騙されずに真実を見極めている、「導いてやらなければ、啓蒙してやらなければ」暗にそう語っている、その人々の主体性を無視しているわけですから。ともすると国民を善意ある人々、(本来であれば)正しい選択のできる人々として尊重しているかに見せかけて、その実は優越意識を振りかざしている、そんな人はいないでしょうか。
「騙される」国民が愚かなのではなく、「騙す」側(政府や人気政治家等)が狡猾なのだと、そう語る人もいるかも知れません。しかし、それはどうでしょうか? むしろ私には、脅威を煽る人々、北朝鮮や中国、ロシアなどの仮想敵国の軍事力を過大に描き出さずにはいられない人々と似たようなものと感じられます。たしかに「敵」が強大である方が好都合、主張の通しやすくなる人もいるでしょう。ただ、森田健作の例を見るまでもなく、そんな巧妙な「騙し」が使われているとは……
森田健作が本当に「完全無所属」かどうかは、選挙前でも「知ろうとすれば」誰でも知ることが出来たはずです。テレビを点ければいい、新聞を見ればいい、どこかの政党と絡んでいるかどうかは、どこにでも記されていたのですから。問題はただ「知ろうとするか」どうかです。他の一切には目もくれず、森田健作の「自己申告」だけを唯一の情報源としたのなら、たぶんその人は「信じたかった」のでしょう。騙した、騙されたという話ではなく、その人が自分で情報を取捨選択した、自分の信じたいものを選び取った、それだけのことです。そんな「民意」に訴えていかねばならない、「民意」の支持を取り付けねば始まらないとしたら、何とも骨の折れる話ですね。
脅威を煽る人々と、煽られるがままに行動する人々の関係を、水商売のホスト/ホステスと客の関係に擬えたことがあります。ポピュリストと支持層の関係も、たぶんそういうものなのでしょう。「騙す」→「騙される」という一方通行の関係、暴力的な関係が長続きするはずがありません。そうではなく、「騙される」側が主体的に「騙される」からこそ関係は破綻することなく保たれるのです。嘘が成り立つのは、それを信じる人がいるからであり、力による強制ではなく、「騙される」側が居心地の良さを感じるから、それでこそ関係は長持ちするものなのです。
キャバクラでもホストクラブでも、ホスト/ホステス達は愛想のいいことを口にするでしょうけれど、それはあくまで仕事だから。だからと言って客が「嘘を吐くな」「騙すな」と真顔で口に出すようなら、それは野暮でしかありません。偽りであっても甘い言葉に気をよくするのが大人の楽しみ方です。そう、片方が悪意をもって「騙し」、受け手が愚かさのゆえに「騙される」のではなく、むしろ双方の共同作業によって虚構が成立し、維持されているわけです。
政府や人気政治家が悪意をもって有権者を「騙し」、国民は被害者である、そう考えるのは一種のエスノセントリズムでもあります。他人が自分と同じ原理で動いているとばかりに、自分を基準にしてしまっているわけです。誰もが同様に、「騙されたくない」と思っているとするなら大間違い、明示的に「騙されている」状態にあると目されるのは誰もが避けるでしょうけれど、しかるに事実無根の虚構を自らの意思で「信じる」人はいくらでもいるはずです。そんな「信じたい」人のモチベーションを考えてみなければ、お互いの言葉は噛み合わないまま、双方の世界観を投影するだけで理解に到達できないまま終わるでしょう。
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