ニクラス・ベントナーというサッカー選手がいます。数年前までは期待の若手として注目されていた選手でもあるのですが、年齢的に中堅へとさしかかった現在、彼はワールドクラスの自信家として知られています。「ベントナーの凄いところは、どれほどゴールを外しても自信を失わないことだ」と賞賛され、チームドクターの語るところでは心理テストの自信を問う項目で「測定不能」を記録した、まさに規格外のタレントです。ガーディアン紙のインタビューでも「なぜそんなに自信を持てるのかって? 簡単なことだよ。俺は良い選手だからね。」と答えてファンの度肝を抜きました。
残念ながら近年は出場機会を減らすばかりでゴールからも遠ざかり、所属クラブからも放出候補に挙げられている選手だったりします。ここで並みの選手であれば、出場機会を求めて中堅以下のクラブへと移籍先を探すところ、しかし彼の自己評価には微塵も揺るぎはなく、ベントナー獲得に手を挙げたクラブはいずれも条件面で合意に至らず、移籍の成立しないまま年月が経過しているわけです。「この選手を評価する人がいるとすれば、それは本人だけ」と語られながらも決して自分への評価は下げない、格下のクラブへの移籍は受けない、年俸が下がるような移籍は拒絶する、まさに鋼の意思を持ったアスリートと言えるでしょう。
試合で活躍を続けている間は自分に自信を持っていようとも、満足にプレーできなくなったり出場機会を減らしてしまうと自信をも失ってしまう、そんな選手を自信家と呼べるでしょうか。好成績を上げているときに自信を持てるのは当たり前です。その程度では到底、自信家とは呼べません。根拠があれば自信を持てるのは当たり前、自信が問われるのは結果が出ないときこそです。ベントナーのようにゴールを外し続けてもベンチにすら入れずクラブから戦力外扱いされても、己への自信を決して失わない、根拠はなくとも自信を持てる、それが本物の自信家というものです。
そこで問いたいのは、日本社会において最も重要視されている「コミュニケーション能力」についてです。業種の如何に寄らず要求されるコミュニケーション能力って、いったいなんなのでしょうか? ポイントの一つは「内容が無い話でも盛り上がれる」ということではないかと、私は思います。フットボール界随一の自信家であるベントナーは自信を持つのに理由を必要としません。それと同じようにコミュニケーション能力の強者は「盛り上がるために話の内容を必要としない」、そういうものなのだと説明できます。
「箸が転んでもおかしい(年頃)」なんて言い回しがありますけれど、これぞまさしくコミュニケーション能力が問われる場面であるように思います。つまり箸が転んだレベルの退屈な話題でも大いに盛り上がれる人もいれば、「こいつらの話は、本当につまらん」と輪に入れない人もいるはずです。そして両者を分けるのがコミュニケーション能力である、と。自分が活躍しているときに自信を持てるのが当たり前であるように、興味深い話題が語られているときに盛り上がることができるのは当たり前のことです。しかし偽物の自信家は結果を出せないと自信を失ってしまうように、コミュニケーション能力弱者は内容のない話題には加わることができないわけです。
真の自信家は根拠などなくとも自信を持つことができます。そしてコミュニケーション能力の高い人は仲間内どころか大して親しくもない人と盛り上がるのにさえ内容を必要としません。すなわちコミュニケーション能力とは、燃料などなくとも自家発電を続けられる、話の内容を必要としない能力なのだと言えます。逆に言えば、常に内容を必要とする人は遠からずコミュニケーション能力不足として就業機会などから排除されることもあるはずです。「今」の時点では、自分は別にコミュニケーション能力弱者ではないと、そう考えている人もいることでしょう。かつての私もそうでした。しかし……
ともすると友人にも不足はない、周囲の人間関係にも問題はなさそうに見えても、その実は脆いケースがあるように思います。たまたま周りに同好の士や、同じ志向を持った人がいるだけ、噛み合う相手がいるだけということもあるわけです。同じ趣味を持ったオタク同士では盛り上がれる人、同じテーマを研究する学生/院生仲間では会話が絶えない人、あるいは応援するスポーツチームなり(色々な意味での)信仰の対象なりを同じくする人の間では円滑にコミュニケーションをとれている人は多いでしょう。しかし、この「相通じる点」が失われたときはどうなのか、そこで「能力」が問われると言えます。
ゲーマー仲間では話の輪の中心にいたり、研究室の中では盛んに意見を交わしたり、タイガースを応援するときにはともに声を嗄らしたりと、まぁ周囲に内容のある会話ができる人が揃っている間は、自身のコミュニケーション能力の不足に気づかない人が多いのではないでしょうか。近年、「大人の発達障害」が注目されるようになりました。高校や大学までは何ら問題のなかった人が、会社勤めをするようになって初めて「障害」が発覚するケースも少なくないそうです。コミュニケーション能力の欠如もまた然り、高校や大学までは友達が多かったのが会社社会では話の輪に加われない、そんな人もいるのではないでしょうかね。
参考、カッコーの巣の上へ
内容のある会話しかできない、というのはコミュニケーション能力不足――就業機会を大きく左右する、ある種の障害の予兆と言えます。同好の士の間では中心的人物であろうとも、場面が異なると途端に沈んでしまう人もいるはずです。内容がなくとも盛り上がれるコミュニケーション能力強者と、盛り上がるためには内容が必要なコミュニケーション能力弱者がいるわけです。まぁ自分がそのどちらかと早めに気づいたところで何か対策が取れるはずもなく、せいぜいが「覚悟を決めておく」ことぐらいでしょうか。中身のあることだけを話していられれば楽だと私などは思うところですが、我々の社会で望まれているのは違いますから。
おもしろいかつまらないか、そこに気を使ってしまう人と、気を使わない人とで差が出ますよね。つまらなくても気にならない、というのは強みであるわけで。家族や親しい人だと気を使わなくとも(故にコミュニケーション能力不足とは感じない)、赤の他人相手だと気を使うが故にコミュニケーション能力不足の烙印を押されてしまう、厳しいものです。
一時的につまらない話をして場が冷えるようなことがあっても、本人がさして気にせず話し続けることで、白けた状態が維持されることが回避されますから。
性格の問題が大きいから、コミュニケーションが苦手な人が同じことをしようと思っても難しいところではありますが・・・。
「家族や本当に親しい友人とならいくらでも話せる。けどあまり親しくない相手とは・・・。」という人の場合、親しい人との間では場が白けるたり「空気読めよ」的な反応をされるのを気にする必要がない(そういう反応をされても深刻には傷つかないで済む)から、というのも大きいと思います。
むしろコミュニケーション能力の高い人ほど「話がつまらない」ところもあると思うんですよね。まぁ、その「つまらなさ」を意に介さないところこそ能力でもあるのでしょう。こうした能力が問われるのは、なかなか辛いところもありますが……
>サナギさん
まぁ、その辺を「考えずに」内容のない話を続けられるのもまたコミュニケーション能力なんだと思います。「心がけ」は悪いことではないのでしょうけれど、それがない人の方が先にどんどん「コミュニケーション」を進めて行ってしまう、と。
誰とでも対等に話す事が大切と考えていたから、小学生、後輩との会話に不器用さがあるんですよね。
自分が年上、経験が上という自負を持たないように心がけたのがいけなかったのか・・・。