「寛容は不寛容にも寛容であるべきか?」そんな問いもあります。これには人ぞれぞれ意見があるでしょう。不寛容に対して寛容であるべきか否か? ただ、繰り返されてきた前例を見るに「不寛容に対して寛容でありながら、最後まで寛容であり続けること」これに比べれば、駱駝が針の穴を通ることの方がまだ易しいようです。
例えば、この日本の社会はどうでしょうか? 人種差別や歴史修正主義、その他諸々のヘイトスピーチや些細なことで人を咎め立てることに対してこれほど寛容な国はなかなかありません。しかしその結果は? 日本は寛容な社会でしょうか? 不寛容に対して寛容である結果としてどこに行き着いたか、それは真摯に受け止める必要があります。
「君の意見には反対だ、だが君がその意見を言う権利は死んでも守る」 そんな言葉もあります。これだけ聞いてみると名言にもなるでしょう。ですが、それも時と場合によりけりです。「偏見と憎悪を煽る言動には反対だ、だが君が偏見と憎悪を煽る権利は死んでも守る」などと暗に語っている人がいたら、その人はもはや寛容ではありません。筋金入りの馬鹿であるか、強い方に尻尾を振ろうとする日和見主義者であるかのどちらかです。たとえその人自身が先頭に立ってヘイトスピーチを繰り返さなかったとしても、決して免責されるものではありません。
ところが、諸々の要因から寛容であったはずの人々が不寛容に対して寛容に振る舞い、不寛容への変更に荷担してしまいます。よくあるケースの一つは、安易な共闘志向と言うべきでしょうか、大まかな目的の面で連携できるかに見える人と「共闘」するために、その人と対立する部分を引っ込めてしまう、相手の不寛容な部分を都合良くスルーしてしまう、そんな傾向です。
具体的には「敵を同じくする連合」ですね。例えば反共産主義・反ソヴェト連邦でありさえすれば自陣営と見なし、その不寛容に目をつぶる時代がありました。反ソ反共であれば軍事独裁政権も人権弾圧も条約破棄の軍備拡張も許容してきた過去があったわけです。そして今の日本であれば「反自公政権」や「反貧困」が反共に代わる役割を担っています。何よりもまず自民党政権の打倒、このためには大同小異だと、もっともらしい言説は方々で見られます。
ただ、それが本当に大同小異かは大いに怪しいところで、決して妥協してはならない分野で妥協しているフシもあります。根本的には対立する立場でありながら、「反自公政権」で手を結び続けるために不寛容を見逃し、のさばらせようとしているケースも多いのではないでしょうか? なるほど確かに「数」は大事です。一人で反旗を掲げるのではなく、仲間を集めて連帯することが社会を動かすためには欠かせません。そのためには、手を組めそうな相手であればまず手を組むことを優先する、自陣営の勢力を強めることを優先する、それも考え方の一つではあるかも知れません。しかし……
たとえば私はベーシックインカムに賛成です。ではベーシックインカムに賛成であれば「同志」であるかと問われれば、必ずしもそうではありません。例えばそう、日本国籍を持たない人々の限定的な社会保障の受給を不正受給と呼んで憚らず、社会保障の受給資格を貧困の度合いではなく国籍によって隔てようと意図している人がいます。この手の輩が国籍ではなく貧困の度合いに準じて支給される従来型の社会保障から、国民一律(=日本国籍保有者限定)の支給であるベーシックインカムを主張したとしましょう。なるほど、ベーシックインカムに賛成するという点では私と一致します。とは言え、何故ベーシックインカムに賛成するか、その点では致命的に違うわけで、私だったら絶対に組めない手合いです。しかし、これを目的を同じくする同志と見なして共闘を訴える人もいるのではないでしょうか?
そして「反自公政権」にしたところで同様です。結果的に投票行動が同じになる、これは結構ですが、なぜ現政権に批判的なのか、それは問われねばなりませんし、そこで致命的な食い違いがあるにもかかわらず手を携えようというのであれば見識が疑われるというものです。同じ「反自公政権」陣営に属しているのであれば味方であり、何をしようと無批判になるのであれば、その行き着く先は自ずから明らかです。
「右と左は手を結べるか」と副題に銘打った超左翼(左翼ではないと言いたいのでしょう)マガジンこと『ロスジェネ』など、危うさを感じさせる典型的な例です。仮に「今」の段階でまともなことを主張していたとしても、です。編集長の浅尾大輔はこう語ります「ネット右翼だってオタクだって、同じ生きづらさの中で生きてるんですよ。わかりあえると思うんですよ。われわれの言葉がリアルであれば。」と。いやはや寛容なことです。でもどうでしょうか? 「リアルな言葉」に目を向けてこなかったからこそ、排外主義者や歴史修正主義者をやっているのではないでしょうか? 「言葉がリアルであればわかりあえる」のなら、人種差別や歴史修正主義なんて存在しません。リアルから目を背けて偏見にしがみついてきたからこそ今があるのです。
リアルから目を背けて虚構や偏見にしがみつくことを選んできた人々と、どうやって「わかりあえる」つもりなのでしょうか? 少なくとも従来通りの「リアル」では通用しません。今まで通用しなかったものが、新創刊の雑誌で主張すれば通用する、そんな甘い夢を抱いているわけでもないでしょう。そこで懸念される最悪の事態は「わかりあえる」ことを目的とし、そのために「リアル」の方をねじ曲げてしまう可能性です。そして「わかりあえた」事柄が「リアル」として認定されてしまう……
ある人は2+2=4と主張し、ある人は2+2=6と主張し、お互いに相容れないとしましょう。ここで「歩み寄り」を良しとする人もいます。2+2=5であると主張する、あるいは2+2=4であると同時に2+2=6でもあると主張するわけです。こうして「相手の主張にも耳を傾け、理解し合おうとする」態度をアピールするわけでもあります。しかし、2+2=5でも良しとする人は、2+2=6と考える人には近くとも、2+2=4と考える人の間には致命的な隔たりがある、そうも思いませんか?
時代の要請か「反・貧困」というのは人を結びつけやすいテーマです。ところが「反・貧困」を掲げる人の中にはリベラル・左派やハト派もいれば、レイシストや先軍主義者もいて、これが対立軸にもなっています。そこでどうすべきか、大同小異で「反・貧困」のために手を結ぼうと唱える人がいます。なるほど、確かに自分を取り巻く経済状況、生活環境は何よりも大事です。そのためには他の面では妥協も必要と考える人もいるでしょう。しかし、同じ「反・貧困」を掲げていれば同志とばかりに、その「同志」が差別や偏見を煽り続けることに全く無批判になっている、そうした人の姿に不気味なものを感じないではいられないのです。
反・貧困や反・新自由主義では共闘できるかに見える人というのは少なからずいるわけですが、同様に少なからず排外主義者や戦前派、全体主義者もこれに含まれています。それでも、反貧困、反新自由主義で手を結ばないと多数派になれないとして、そこで決断されるのは何か? 対立している部分に目をつぶること、差別や歴史の捏造、人権無視、手段の誤りには目をつぶって、相手が受け容れやすいような「リアル」を差し出すことでしょうか? 前例から察するにその行き着く先は、国家社会主義日本労働者党にも見えますが。
陰謀論や疑似科学になびき、極右と手を組んでも良いのか?と、説く人もいますが、十分に危機意識が共有されているとは言い難く、佐藤優や城内実といった人々を平然と持ち上げている人もいる、色々な面で先行きの暗さを感じずにはいられません。
単に「(反新自由主義など)同じ陣営だから」という理由で、不寛容に寛容になってしまう人もいる一方で、「優しさ」から不寛容に寛容な人もいます。リンクを貼ってる○○さんとか○○さんなどそうだなぁ、と思うわけですが名指しはしません。この辺の人は本当に「いい人」だと思いますし、人間性には敬服しています。とは言え、そこにも危うさは感じられるわけで、何ともやりきれない気持ちです。
私などであれば「うるせぇ、クソして寝ろ!」と追い返してしまうような場面でも、心優しさから真剣に向き合う人もいます。どうしようもない暴論や、目の回りそうな超理論、単なるデマ、こうしたコメントにも分け隔てない態度で、何とか「理解しよう」と努める人もいます。そうした人々の「優しさ」に私は敬服しつつも、真っ当な意見とヘイトスピーチを同列に扱いかねない態度に苛立ちを感じることがあります。そんな優しい人への私からのメッセージの一つがこちらですが、ともあれこのパターンにもまた危うさを感じるわけです。
あらゆるものを友と見なし、それに寛容であることが出来れば、理想としては素晴らしいことだと思います。しかし寛容であるためには、それに対して寛容であればもはや寛容ではいられないもの、敢えて不寛容となり退けねばならないものがあります。退けるべきか否か、そのジャッジは良い方向にも悪い方向にも向かうでしょう。ただ不寛容に対してすら寛容である、その結果として寛容であり続けることの難しさは意識されるべきです。
『ホロコーストの真実』の初めでリップシュタットは、「否定者とは議論しない」という賢明な原則的立場を披瀝している。否定論者と議論すること自体、ホロコーストがあったか、なかったかという二項対立を仮構し、修正主義が意味ある歴史研究の一端を担っているような印象を一般に与えるおそれがあるからである。否定論者たちはこのことを知りぬいており、彼らが耳目を引きつける法廷戦術を好むのはそのためである。(209ページ)
「日本は世界で最も言論の自由が認められている国だ」と言う人を時々見かけますが、それが往々にしてレイシストだったり歴史修正主義者だったりしますから……
>不平湯さん
そうですねぇ、「群れる」ことから自由になる、現実に向き合うことが最終的には求められるのですが、そこに辿り着けるかどうか…… 多数派になるためにはネット右翼的なるものからの支持も取り付ける必要がある、その中で彼らに現実を突きつける代わりに、彼らの信じているものに左派が擦り寄ってしまうと、それこそ「居心地が良い」虚構の中から抜け出せなくなってしまう、そんな可能性を感じるのです。
現実を自分たちの歪んだ理想のために作り変えようとする者たちは、必ず「現実」から手酷い報復を受けることになるでしょう。ネット右翼的「多数派」に属している人々も、それが「真実」であると心の底から信じているわけではないと思います。恐らく内心では不安を感じているのでしょうが、その世界にいることが、とりあえず「楽」で「居心地が良い」からでしょう。多くの「志を同じくする仲間」に支えられているような気分になり、妄想世界で「憂国の士」を演じることができる。彼らにとっての「真実」とは、徹底した安楽志向がもたらす自己怠惰の正当化なのです。
「最大の強者は、世界にただ独り立つ人間である」
(イプセン『民衆の敵』)
「群れる」ことから自由にならなければ、真の開放はありえないと思います。
このことで気になったこと(既出かもしれませんが。)があるのですが、この歴史修正や人種差別を容認することが今の日本では「寛容がある」とされているというか「言論の自由が認められている国」とされる理由になっているような気がします。
我々も、変わって行くべきなんですね。
でも私はなんとなく、この場(インターネット)での発信は好きじゃないです
なので私は自分の足で目的地へ向かい、自分の口から相手の心へ、はっきりと言いたいと思います
ありがとうございました
この場合レイシストは「不寛容に寛容」ではなく「不寛容」そのものです。そして「不寛容」な人々の状況に同情するなど、諸々の理由でその不寛容を受け容れてしまう状態を「不寛容に寛容」と呼んでいるわけで、こちらはむしろnanamiさんが該当します。ただ同調を求めて不寛容に寛容になる人々には感心できませんし、優しさから不寛容に寛容になる場合も同様です。不寛容の犠牲者のことが抜け落ちるケースも多々ありますし、そもそも不寛容に寛容であることが対症療法でありえたとしても、原因に迫るものではありませんから。
だから不寛容に寛容になる気持ちは分かりますよ。少なくとも、著名な政治家や論客などではなく、貧しさゆえに精神的余裕をなくしている人間に対しては。下を作らずには我慢がならないほど尊厳が否定され、未来の展望が望めない状態では仕方のない事だろうと思わずにはいられません。
目に見えて分かりやすいレイシストは、往々にして社会の底辺層であったりするのですよね。子供を虐待する親も社会に虐待されているという構図と同じ事かと。
私はブラック企業の社員だったりホワイトカラーの派遣社員だったり、要は年収300万を超えたことのないダメリーマンですよ。政党丸抱えで背中を押してもらえるなら吝かではありませんが、私財を投げ打って政界に出ようとする覚悟もありませんし。まぁ普通の市民ですが、市民が変わらないと社会も変わらないかな、と。
>GOさん
かの『嫌韓流』批判本の編集者の一人である朴一氏の言葉に、「<人を差別する言論の自由>の恐ろしさに気付かせてくれた『嫌韓流』の筆者に感謝したい」というものがありました。十分に意識されているとは言い難いですが、こうしたヘイトスピーチの自由に疑念を持つ人が増えてくれればと。
「ネット右翼」の生きづらさは、まぁ十分に生きづらさはある一方で、本物の貧困国や釜ヶ崎のドヤ街のような、差し迫った危機まではないケースが多いような気がします。危機に直面しているわけではないからデモやストには理解がない一方、とは言え将来的な展望はなく、その鬱憤を虚構で紛らわす、そんなイメージも浮かびます。
そのとおりです。差別や抑圧を扇動する自由などありません。
リアルの言葉を紡ぎながら、本当の運動の活性化を目指す必要がありますね。(革命的なんとか同盟も、これで分裂しちゃいました)
あと、「ネット右翼」ってのは、本当に「生きづらさ」を生きているのでしょうか。ある程度の「余裕」がないと、ネット世界での言論等は展開できないと思うのですが。
私はまだ知り得ていません
よく分かりました、ありがとうございます
しかし、例えば、知る必要がない、と考えても、私は生きていくことができます
そうですよね?
一つ伺いたいのですが
貴殿は政治家なのですか?
それとも、その地位を目指す者なのですか?
うん、確かにそれはドラマの影響が強いと思います。「汚い権力争いが行われているから世の中が良くない」と考えるようでしたら、全くの勧善懲悪、劇場型の発想ですから。その発想から抜け出せないからこそ小泉、橋下のような既存政党を否定する暴君への熱狂があるわけです。
>不平湯さん
そこで「苦い現実に向き合え」と説くならばいいのですが、しかるに彼らと手を組むために現実の方を動かそうとする傾向も感じるのですが、どうでしょうか。「嘘も百遍唱えれば真実になる」から「真偽に関わらず多数派に信じられているものが真実」へと向かいかねない、そんな懸念もあるのです。
ゲッペルスは「嘘も百遍唱えれば真実になる」と言いましたが、ネット右翼たちはその精神の忠実な信奉者たちと言えますね。苦い現実より、「心地よい嘘」を選んだ臆病者たちに過ぎません。魔女の「預言」に惑わされ、破滅していったマクベスを思い出しました。彼らは自分たちが拠って立つ、「歴史修正主義」という「バーナムの森」が動き出そうとしていることに気づいているのでしょうか。
そもそも政府が悪いのでは、と私は思うのです
何が悪いのか、と聞かれれば全部と答えるかも知れませんが、私は「政党」を作ることに問題があると考えます
ハァ?と言われるかも知れません、いや、事実そう言われるでしょう
しかし、今の政治は、各党が権力を握ることに精を出している気がしてなりません
各党それぞれ良いところもあり、悪いところもある
なぜそれを、認め合ったりしないのでしょうか?
ドラマの影響で言っているのだと、思われるなら思っていただいて結構です
そもそも世界の政治家は阿呆です
ここで切ります
変なところで切ってしまいますこと、そして、勝手な発言お許し下さい
では
敵の敵は味方と、味方を幅広く求めているようでいて、それでいてどこか排他的にもなりがちな「共闘」が目に付きますからね。まぁ手は広げつつも、相手を見る目を閉ざしてはならないと言うことで。
>いるか缶さん
そう、「抵抗勢力」とか「反日国家」とか敵を作り上げることで、その敵に立ち向かうべく結集を呼びかけてきたのが権力の側でした。方法論としては有効ですけれども、共通の敵を作る以外の結びつき
も模索できればな、と。
常々「敵の敵は味方」的な態度ははなはだ誠実でないと思っているつもりなので、はなはだ「何やってんだろ」と思う出来事があって、はなはだすっきりしていなかったのでした(笑)
常々、善人面のごまかしばかりに腹立ててると、ヤクザの慈善活動がマシに見えてしまうという錯覚に陥るのでゆめゆめ注意したいと思ったことでした。感謝。