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非国民通信

ノーモア・コイズミ

中部以西も危機的状況のようです

2011-05-22 23:10:47 | ニュース

九電、最大15%の節電を要請へ 7月から(朝日新聞)

 九州電力の真部利応(まなべ・としお)社長は18日の記者会見で、7月から最大15%の節電を企業や家庭に求める方針を明らかにした。定期検査中の玄海原子力発電所(佐賀県玄海町)2、3号機の運転再開が、佐賀県などとの調整の遅れで7月以降にずれ込むほか、火力発電に使う燃料の調達が難航。冷房需要が増える夏の電力の供給不足を防ぐねらいだ。

 真部社長は「原発の再開や燃料調達に全力を尽くしているが、電力不足で大停電を起こすことは絶対に避けたい」と述べ、本格的な節電に理解を求めた。すでに、JR九州や西日本鉄道は運行本数の削減などを検討。「夏休みを長くしたり、休日を入れ替えたりするなど工夫をお願いしたい」(真部社長)としており、くらしや企業活動に大きな影響を与えそうだ。

 広瀬隆の脳天気な予測とは裏腹に今年の夏も相当に暑くなるとの見込みを昨日の天気予報で聞いて暗澹たる気分になったりもするこの頃ですが、西日本もまた風向きはよろしくないようです。とばっちりを食らうのが浜岡原発「だけ」で済めばまだしも、やはり影響は全国に拡大していかざるを得ないのでしょう。東京電力のように、原子力だけではなく火力や水力、その他諸々でバランスのとれた発電手段を備えた電力会社もあれば、相当に原発依存度の高い地域もあるわけで、こうなると東京電力管内に原発融通どころの話ではない、自身の管轄区の住民に我慢を求めざるを得ないわけです。火力発電所をフルパワーでフル稼働させれば理論上は間に合うかに見えるエリアだって、想定外の事態に備えるべく余力は持たせねばなりませんし(ある種の脱原発論者にとっては不要のことらしいですが、彼らの想定の甘さには呆れるばかりです)、急に燃料の調達を増やすのも簡単ではない(燃料輸送に必要なタンカーまで不足する可能性すらあるとか)、かくして西日本でも節電が必要になる可能性が濃厚となりました。引用したのは九州地方の話ですが、関西や中部エリアもまた例外ではありません、その結果として――


自動車業界、7~9月の土日操業決定 夏の電力不足対策(朝日新聞)

 国内の自動車メーカー14社でつくる日本自動車工業会は19日、夏の電力不足対策として、7~9月は川崎重工業を除く加盟社の全工場を、電力需要の少ない土、日曜日に稼働させ、代替として木、金曜日は休業すると発表した。

 部品メーカー約450社でつくる日本自動車部品工業会も歩調を合わせる。国内で自動車の製造にかかわる人口は約80万人と言われており、多くの働き手の生活が変わる。東海地方や九州北部など工場集中地域では、小売業や交通機関、保育施設なども対応を迫られる可能性がある。

 自工会では管理部門などの対応は各社に任せるが、トヨタ自動車では、工場だけでなく、本社も含むほぼ全社で「土日稼働、木金休業」とする方向で近く労働組合と調整に入る。労組も受け入れる見通し。デンソーなどグループ主要各社も追随する模様だ。

 節電と「電気代の節約」を混同し、電力が余っている深夜の電力使用をムダと呼んでいるノータリンも散見されるところですが、必要なのはピーク時の最大使用量を抑えることです。そのために必要なのはピークシフト、つまり働く時間を「ずらす」必要が出てきます。全員が一斉に平日の昼間に働くという実は「贅沢な」電気の使い方は今後は難しくなる、その代わりに全員が電気を「分かち合う」ことを余儀なくされるわけです。皆で一斉に電気を使う代わりに、交代で電気を使うことにする、昼ではなく夜に働くこと、平日だけではなく休日に工場を稼働させることでピーク時の電力使用は抑えられます。ただ電力の余っている時間帯(夜間、土日祝日)に働くことを強いられる労働者側としては、安易に賛同したくないことでもあるはずです。夜間労働が健康に与える影響の大きいことは言うまでもありませんし(それに比べれば放射線の影響の方が……)、ここで決められたという休日のシフトだってどうでしょうか。

 周りの人間と休日がずれるというのは、まぁ我慢できる範囲かも知れません。今だって普通に、例えば小売や飲食関係など土日祝日には休めない人も少なくないですし。ただ知人や家族と休日が異なってしまうことを負担に感じる人もいるでしょう。その辺は民主党の休日分散化案でも大いに批判されたところですが、父親だけ、あるいは母親だけ休みの日が出来ても、代わりに家族全体で休めない日が出てしまうのでは困るという人もいたわけです。ましてやシフト勤務は休日の減少に繋がりがち、往々にして土日が休みの職場は祝日も休みですけれど、曜日シフトで週休2日の職場は祝日とは無関係に週休2日に限定されていたりするものです。カレンダー通りに休めば年間休日120日+だけど、カレンダーとは無関係に木、金のみ休業になったら年間休日は105日相当に減少します。この自動車業界各種が祝日の扱いをどうするかは知りませんけれど、節電に協力すると見せてさりげなく労働強化に走る会社も出てくることでしょう。


地下鉄間引き試算 10~20%節電ケース 大阪市交通局(産経関西)

 東京電力福島第1原発の事故や中部電力浜岡原発の停止で夏場の電力不足が予想される中、大阪市交通局では、政府などからの節電要請を受けた場合に備え、「間引き運転」のシミュレーションを始めた。市営地下鉄など9路線について、10~20%の節電に必要なダイヤを試算。市交通局は「万一、計画停電などが決まった場合などに対応するための準備」としており、実際に実施するかは現時点では未定という。

 試算は1日約120万人が利用する御堂筋線のみと、御堂筋線やニュートラムを含めた全9路線を対象にした2通りで実施。消費電力がピークとなる朝のラッシュ時(午前7~9時)に、電力を10~20%カットするため必要なダイヤを試算した。

 この結果、御堂筋線では朝ラッシュ時のダイヤを、より本数の少ない夕方ラッシュ時のダイヤに変更することで10%削減、休日ダイヤに変更すれば20%削減が達成できるとしている。

 通常ダイヤでは定員の140%程度の混雑率が、夕方ダイヤの場合は170%、休日ダイヤでは200%になる見込み。

 いうまでもなく電力需要のピークから外れる朝のラッシュ時間帯に節電しても意味がないのですが、大阪市交通局は何を意図しているのでしょうか。まぁ、ピーク時以外でも節電に励めば、電気代は節約できます。電車の本数を減らせば、車両のメンテナンス費用など運行に掛かる諸々のコストも節約できることでしょう。乗車率200%のサウナに詰め込まれる通勤客にとっては悪夢ですが、かといって通勤に利用する交通機関を選べるような人は少ない、ほとんどの人はどれほど不快であろうとも決まった電車を使わなければならないだけに、乗客が減って収入が落ちる心配もいらないわけです。普段は乗客に不便を強いれば色々と評判を落としそうなものですが、昨今の節電意識が高まる中では「率先して節電に協力する優良な組織」として逆に社会的な賞賛を浴びることもあるのでしょう。大阪市交通局にとっては良いことずくめなのかも知れません。利用者にとってはいい迷惑ですが、ここで不便さを訴えるのは原発推進派の非国民なのです。


中部電、企業の余剰電力買い取りへ 新日鉄などから(朝日新聞)

 中部電力は16日、自家発電設備をもつ管内の民間企業から新たに余剰電力を買い取る方針を決めた。浜岡原子力発電所の全炉停止による夏の電力不足を補うには社内だけでは限界があるため、中部電の約6分の1にあたる発電力をもつ企業に幅広く協力を求める。

 経済産業省によると、中部電管内の東海3県と長野、静岡両県では、民間企業約100社が自家発電施設を持ち、発電能力は443万キロワットにのぼる。中部電のピーク時の電力供給力の約6分の1の規模がある。

 中部電はこのうち、発電規模の大きい鉄鋼メーカーや製紙メーカーなど「安定して送電してもらえる企業」(中部電幹部)を中心に、余剰電力の買い取りの打診をすでに始めている。

 地域最大規模の60万キロワットの発電施設を持つ新日鉄名古屋製鉄所(愛知県東海市)には現在、数万キロワットの買い取り電力量を増やせないか打診中だ。新日鉄側は「中部電への販売量を積み増す方法を検討している」(広報)と前向きで、追加分で一定の電力量は確保できそうだ。

 トラック用ホイール製造で国内首位のトピー工業がもつ火力発電所(愛知県豊橋市)からは、買い取り電力量を1%増やすことが決まった。トピー工業は「発電余力はほぼない発電所だが、夜間や祝日もフル稼働して中部電の要請にこたえる」(担当者)という。

 さて裕福な企業の工場には自家発電設備を備えているところもあるわけですが、そういった企業の発電設備から余剰電力を買い取ろうという方針が決まったそうです。電力会社の頑張りにも限界がありますから、これも一つの解決策ではあるのですが、どうにも「飢餓輸出」という言葉が脳裏をよぎります。飢餓輸出って、ご存じでしょうか。外貨獲得のために、国内で必要な物資をも輸出に回してしまう状態を指します。何かと社会主義「国」的(≠社会主義)な考え方が強まるばかりの日本ですが、社会主義国の得意技がついに日本でも見られるのかも知れません。つまり自社で必要な電力をも、電力会社への販売に回してしまう可能性はないでしょうか。工場の生産設備を止めてまで電力を売りに走るところは少なくとも、工場の空調など労働環境に関わる部分を抑えて、それで浮いた分の電力を売るくらいは普通にありそうです。工場で働く人は猛暑のなか熱中症寸前で喘ぐばかり、でも外貨獲得のために電力は売られてゆく…… あるいは勤務時間のシフトを駆使し、電力需要の高い時間帯(=平日の昼間)は電力を売る時間として、電力需要の低い時間帯(=夜間、休日)に従業員を働かせる等々、一部の社会主義国で見られたものにも決して引けを取らぬ、多大な犠牲の上に立った「輸出」が見られる日は遠くなさそうです。

 恐ろしいのは、こうした飢餓輸出が現実のものとなったとしても、それは社会的な非難の対象となるどころか、反対に美談として扱われ賞賛を集めるであろうということです。どれほど従業員に負担を強いても、元より労働者側の立場を慮ることのない世論に加えて昨今の節制ムードや脱原発気運のなかでは、「節電(電力不足)に協力する企業」としての好感度の増加が批判を遙かに上回ることでしょう。むしろ従業員や利用者に多少の不便な思いをさせるぐらいの方が、身を削って世の中に貢献しているかのような印象を与えることすら考えられます。脱原発のため節電に務め、電力売却にも務めます云々と宣言すれば、左派でも考えの足りない人が喝采を送るであろうこと請け合いです。一方その影で働く人は追い詰められるばかり、ふざけた時代になったものだと思います。

 

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好まれる政治家像

2011-05-20 23:19:51 | ニュース

 この頃の選挙や街頭演説なんかで各候補や現役議員の主張を聞いていて気になったのですけれど、猛々しく脱原発を説く人が多い一方で、直近の電力不足に向けて「節電せよ、我慢せよ」以外の対応策を説く人は極めて少ないのではないでしょうか。電力不足の可能性を認めることは、暗に(それが現時点のことであろうとも)原発の必要性を認めることになるわけで、脱原発の熱狂に水を挿すものとして世間からは快く思われない危険性もあるのかも知れません。しかるに、石原慎太郎のように「原発推進派だ!」と息巻くような例外的な少数派であっても、やはり差し迫った電力危機に対する感度は随分と鈍いものでした。反原発であろうが原発推進派であろうが、電力不足という住民の生活に密接に関わる分野への言及には乏しい――そしてこの傾向はメディアを賑わすような注目度の高い選挙戦ほど顕著であったように思います。

 たぶん、身近な問題に対処する政治家を国民は好まないのでしょう。なぜなら、身近で具体的な問題への対処は、直接的に利益をもたらす行為であり、言うなれば住民の「我欲」を満たしてやる行為でもあるからです。一部の住民が抱えている問題を解決するということは、一部の住民に対する利益供与であるとして、むしろ有権者から、とりわけ無党派層から嫌悪される要因ともなっているのではないでしょうか。ゆえに特定の誰かの利益には繋がりにくそうな、近い問題ではなく「遠い」理想を語る政治家の方が「公」にふさわしい人物として受け止められるわけです。とかく地方議員がムダ呼ばわりされるのも、実は真面目に活動している地方議員ほど住民の身近な問題に取り組んでいるからなのかも知れません。顔の見える身近な人のためではなく、もっと漠然とした「公」のためを主張する人が不偏不党にして公明正大と見なされる、だからこそ「遠い」理想を説く人が政治家として支持を集め、「卑近な」問題に対処しようとする人が蔑視されてきた、それが日本の政治風景ではないでしょうかね。


原発“中断”発言の橋下徹大阪府知事に福井県知事かみつく(産経新聞)

 大阪府の橋下徹知事が原子力発電所の新規建設や稼働期間の延長をしないための府民運動を展開するとしていることについて、原発14基を抱える福井県の西川一誠知事は13日の定例会見で、「関西の55%の電力が福井から供給されていることを、関西の自治体、消費者はわきまえてもらいたい」と反論した。

 西川知事は、原発はリスクや課題を伴っているとし「県、立地市町は犠牲を払いながら国の原子力政策に協力している」と説明。「日々、安定した電気の供給を受けているありがたみを消費者に考えてもらいたい」と述べた。

 これに対し、橋下知事は「(西川知事は)原発でやってきたのに今さら停止、廃止ってどやねんということなんでしょうけど、僕らは消費者サイドとして感謝しながら、福井のリスクを取り除くためにも行動を起こそうとしている」と話した。

 さて、原発関係では完全にイっちゃってる人も目立ちますが(参考)、流石にこの辺はネット上でお互いを慰め合っている人だけだと思いたいところです(でもネット上や週刊誌上で語られる原発像を真に受ければ、こういう結論に到るものなのかも知れません)。一方、ここに取り上げた橋下の場合は概ね最大公約数的なものとして、今日の世論を象徴していると言えます。震災後は石原と石原に反対している「つもり」の人とで主張の距離が縮まった、似通ってきたと何度か書いてきたものですが、それは石原だけではなく橋下についても当てはまるのではないでしょうか。

 昨今の急進的というより狂信的といった方がふさわしいかに見える脱原発の流れの中では必然的に電力不足という危機が我々に襲いかかる、「痛み」が生じるわけです。そして世論が一色に染まろうとしている時代ほど「痛み」に対する感覚が問われます。「痛み」を被る人々に配慮できるのか、それとも「痛み」を無視して己の信じる「正義」を押し通そうとするのか――いうまでもなく橋下は後者に属する人間ですが、世論はいかほどのものでしょう? そして橋下に反対している「つもり」の人は? 震災後に我々の社会を覆い尽くした節制ムードを歓迎する向きは少なくなかったはずです。街の随所から明かりが消え、「贅沢」と見なされるものほど自粛を強いられる、電車の本数が減ったりATMが使えなくなったりと不便なことも増えましたが、「今までが便利すぎたのだ」「もっと慎ましくあるべきだったのだ」とばかりに、これを賞賛する声も少なくありませんでした。人の欲望が抑えつけられることに快感を覚える人々は石原や橋下だけではなく、それに反対している「つもり」の人にも少なくないように思います。

 奇跡的に冷夏になるか、それとも運悪く猛暑になるかは定かではありません。「今年の夏が昨年のように猛暑になることはまずあり得ない」と広瀬隆は力強く断言しましたけれど、そんなものは確率の問題でしかないわけです。昨年のような猛暑になって、電力不足から深刻な問題が生じる可能性もありますが、そうなったときに「想定外だった」とでも言い訳するつもりなのでしょうか。もっとも電力不足から生じた問題の責任を電力会社を悪者にすることで済ませようという算段は、当然ながら橋下の頭の中にはあるはずです。橋下に反対している「つもり」の人の中にも電力会社を責め立てたくてうずうずしている人は少なくなさそうに見えるだけに、橋下的なるものはますます以て支持を広げていくことでしょう。

 「福井のリスクを取り除くためにも行動を起こそうとしている」とも橋下は語ります。原発所在地から「汚れ」を払ってあげようと言わんばかりの「お為ごかし」が今時の脱原発論には顕著ですが、橋下もその系統ですね。むしろ補助金を受け取る地元自治体が「利権が~」として悪者にされがちで、遠く離れた都市部から、原発所在地の住民を更生させてやるのだ、これはおまえのためなのだ、みたいな傲慢さが溢れています。まぁ、橋下や都市部の住民にだって意見を述べる権利はありますけれども、それが地元自治体や住民を悪者にしているフシはないでしょうか。福井の西川知事には電力を供給する側の責任を考えての逡巡も感じられますけれど、一方の橋下には迷いが見えません。非難するだけで済む立場は楽なものです。関西電力や福井県サイドが近畿圏の住民生活や産業を支える責任感から原発を稼働させたとしても、その時は脱原発論者として猛々しく振る舞い、原発を稼働させる福井県なり電力会社なりを非難すれば橋下はより一層の支持を集めることでしょう。関西地区のために発電所を稼働させれば、「福井のリスクを取り除くため」という橋下の好意を踏みにじったものとして詰られる、原発所在地にはさらなる重荷がのしかかります。ただ嫌われ者を罵っているだけの人もいれば、結果に責任を感じる人もいる、そして有権者が好むのはいつも……

 

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行政は「目立つ」問題には対処しようとするけれど

2011-05-18 23:21:04 | ニュース

「団体限定」避難住宅、応募3件 仙台市「孤独死防止」(朝日新聞)

 東日本大震災の被災者のための仮設住宅や市営住宅などへの応募を、仙台市が「10世帯以上の団体申し込み」に限定したため、「そんなに集められない」と被災者に戸惑いが広がっている。被災者の孤独死が相次いだ阪神大震災を教訓にした策だったが、締め切りまであと3日の時点で応募はわずか3件。用意した住宅は1割も埋まらず、市は早くも見直しを迫られている。

 「必ずグループ単位で申し込んでください。単独では仮設や市営住宅に入れません」。今月9日夜、仙台市若林区の若林体育館。市の担当者が約300人の被災者に説明すると、「仲良しグループだけが集まればいいのか」「私のようにグループに入らない人はどう生きていけばいいの」と批判の声があがった。

(中略)

 仕方なく自力で動き始めた人もいる。若林区の荒浜地区で被災した40代の女性は、もともと地区で生まれ育ったわけではなく、町内との関わりもほとんどなかった。不動産会社を回って物件を探す。もっぱらの関心は民間の賃貸住宅に入居する際に公的な助成を受けられるかどうかだ。「近所付き合いは人それぞれ。単独でも仮設に入れるようにしてほしい」と訴える。

 ちょっと前のニュースですが、こんな問題もあったようです。被災者の孤独死が多かったという阪神大震災の教訓から仮設/市営住宅への応募を「10世帯以上の団体」に限定したところ、条件を満たせない人が続出したとか。中でも切実に感じられるのは「私のようにグループに入らない人はどう生きていけばいいの」「近所付き合いは人それぞれ。単独でも仮設に入れるようにしてほしい」と言った声ですね。自分もそういうタイプだから身につまされるところがないでもありませんが、ともあれ人付き合いを好む人もいれば、そうでない人もいる、人付き合いを好まない人でも不自由しないような配慮が求められるところです。

 元より日本では経済的な豊かさは否定的に扱われ、むしろ貧しい中での「助け合い」的なものに理想を見いだす人が左右問わず多かったように思います。経済的な困窮から自殺を選ぶ人が万を超える中ですら、経済的な豊かさを追うのは間違いだと、そういった気運が幅を利かせてきたわけです。震災後は、こうした傾向がなおさら強まってはいないでしょうか。経済面に関する危惧の表明が、あたかも人命軽視であるかのような二元論の中で全否定され、助け合いの精神が美化され称揚される――別に助け合いは悪いことではありませんけれど、それが必須になる社会とは、一方で陰湿なムラ社会的側面を持ちがちです。「仲良しグループ」の中に入れば生きていけるけれど、その影で「私のようにグループに入らない人はどう生きていけばいいの」と悲鳴も聞こえる、こういう社会は独善家の理想でしかありません。個人で好きなように生きられる、そういう個人のワガママ、言うなれば「我欲」が許容される社会であって欲しいと願うばかりです。


愛知県:トイレ掃除いや! 観光人材育成研修、相次ぎ脱落(毎日ブルジョワ新聞)

 愛知県が緊急雇用対策として10年度に実施した「観光地域づくり人材育成事業」で、雇用した6人のうち、研修修了者が1人しかいなかったことが14日分かった。関係者によると、中途退職した5人の中には「観光に役立つ人材を育てると説明されたのに、トイレ掃除や駐車場の誘導をやらされた」と不満を述べた人が複数いたという。県観光コンベンション課は「見解の相違だと思うが、誤解を招いたとしたら申し訳ない」と釈明している。
 
 同事業は「観光を担う地域のリーダーを育成する」とうたい、昨年6月~今年3月に実施。ハローワークなどで参加者を募った。予算は約2970万円。県観光協会に委託し、県の産業、歴史などを学ぶ講義研修35日間と、同協会や旅行会社、ホテルなどで観光業務を体験する実技研修56日間で構成された。
 
 参加者には研修中、月給二十数万円が支払われた。トイレ掃除などは実技研修の一環だったが、昨年11、12月に各1人、今年1月に2人、2月に1人が中途退職し、研修を終えたのは1人だった。
 
 同課は「観光業務の実態を知る意味で意義がある事業だったと思う。トイレ掃除などに不満な人がいたのは事実だが、どんな業務でもやり遂げてほしかった」と話している。

 こちらはまぁ、よくある話です。結局この手の緊急雇用対策の類は継続的な雇用を保障するものではなく、失業者に腰掛けを提供するものでしかありません。緊急雇用対策を活用して、そこから「年金受給年齢まで働ける仕事」に進めると期待する人など、リアルに失業を経験した人にはなかなかいないでしょう。国や自治体が「公共事業」としてコンサルや人材紹介会社の類に事業を丸投げし、他にやることがない失業者が給付金を受け取りながら名ばかりの研修を受ける、そして受講した研修は次なる就業先を探す上では何の役にも立たない、ただただ失業者にとっての「つなぎ」であり、国や自治体にとってのアリバイ作りでしかないものが圧倒的なのです。

 それはさておきトイレ掃除などに不満な人がいたそうで、6人の内5人が中途退職したことが伝えられています。まぁ真面目に就職先を探している人であれば、この手の緊急雇用対策や研修に参加して安穏とはしていないでしょう。研修に参加することで当座の生活費を受け取りつつ、影で就職活動していた人もいるはず、途中で就職を決めて研修という名の茶番から速やかに足を洗った人もいるのではないかと推測されます。とはいえ6人中5人が中途退職とはブラック企業並み、よほど内容が悪かったのでしょうか。「観光を担う地域のリーダーを育成する」とのうたい文句ではありますが、実態はトイレ掃除や駐車場の誘導ということで不満を漏らす人も多かったとのこと。おそらくは募集時の説明と実際の内容が大きく異なっていたのでしょう。この辺は日本の求人では当たり前のことですが――


原発で作業「求人時に明示を」 厚労相が業界に要請へ(朝日新聞)

 大阪市で求職した男性労働者が、求人内容とは異なる東京電力福島第一原子力発電所敷地内での作業に従事させられていた問題を受け、細川律夫厚生労働相は13日の閣議後会見で、東京電力や業界団体に対し、求人内容を適切に明示するよう要請する方針を示した。

 同省が13日中に、求人の募集をする際には就業場所や賃金、労働内容といった労働条件を明らかにするよう求める要請書を出す。大阪市の例では、宮城県女川町でダンプカー運転手を募集する内容だったのに、実際の業務は福島第一原発で原子炉を冷やす作業の一部を担うものだった。細川氏は会見で「だますようなかたちで労働者を原発の作業所で働かせることがないよう措置をする」と述べた。

 そしてこの記事です。言及されている問題に関しては先日取り上げたましたが、いやはや酷いものです。ふざけるのもいい加減にしろと言いたいです、細川厚労相に。日本なんですから求人広告の記載と実際の業務内容が違うのは当たり前、それを今に至るまで黙認し続けておきながら原発に「だけ」は反応してみせる、何とも調子のいい話ではないでしょうか。「だますようなかたちで労働者を意に沿わぬ形で働かせること」を長年にわたって放置しておきながら、それが原発関係ともなるや、これ見よがしに憤ってみせるのですからパフォーマンスもいいところです。私みたいに実際に仕事を探す側の人間からすれば、求人広告の時点で作業場所が原発かそうでないかだけが確実であったところで何の意味もないのですけれど!

 ブルジョワ新聞では、「どんな業務でもやり遂げてほしかった」と主催者側の言い分で締めくくられています。まぁ、世間の反応も似たようなところでしょう。課せられた仕事を嫌がって退職する人に対する視線とは基本的にそういうものであり、記事の見出しも端的にそれを表しています。しかし原発作業「だけ」は例外なのかも知れません。仕事から逃れようとすることは糾弾され、個人のワガママであるかのごとく非難めいた形でばかり語られるけれど、原発での作業を厭うことだけは許される、「被害者」として同情を買うもののようですから。原発が唯一にして絶対の悪として人々の頭の中で肥大化していく一方で、原発「以外」の問題に対して世間は鈍感になるばかり、騙されて原発で働く人がいなくなることはあっても、騙されて求人時に明示された条件とは全く異なる内容の仕事を強いられる人は減ることがなさそうです。


運動すると乳がんリスクが低下-国立がん研究センター(医療介護CBニュース)

 国立がん研究センターはこのほど、「積極的に運動する女性は、しない人に比べて乳がんになりにくい」とする研究結果を発表した。

 研究は1990年と93年に岩手、秋田、茨城、新潟、長野、大阪、高知、長崎、沖縄各府県の10保健所地域に住んでいた40-69歳の女性約5万人について、2007年まで追跡した多目的コホート研究。研究開始時と5年後のアンケートから、仕事のほかに余暇運動を行う機会が「月3日以内」「週1-2日」「週3日以上」の3グループに分け、乳がんの発生率との関連を調べた。平均約14.5年間の追跡期間中、対象者約5万人のうち652人が乳がんになった。

 調査結果によると、「週3日以上」の余暇運動を行うグループは、「月3日以内」のグループに比べ、乳がんリスクが約3割低下することが分かった。さらに、肥満度を示すBMI(体格指数)25以上と25未満に分けて分析すると、BMI25以上のグループでは、「週1日以上」の余暇運動を行う群の乳がんリスクが「月3日以内」のグループより4割近く低くなることが分かった。

 ……で、蛇足ですがこんな報道もありました。生活習慣のリスクは、ガンとの関係だけを見ても十分に高い――放射線の影響よりもずっと高いわけです。だからといって健康的な生活を送ろうなどと言う殊勝な気持ちが湧いてくることもなかったりしますし、健康的な生活を強いられるとしたら余計なお世話とすら思えるのですが、取りあえず普通の人にとってはリスクを「総合的に」考えることが大事でしょう。個々のマイナス要因はどれも好ましいものではないにせよ、小さなリスク要因を避けるための対応策が大きな負担を伴うようであっては本末転倒ですから。放射線から逃れるために過剰な対価を支払うべきなのかどうか、逆に生活習慣を乱すようなことがあっては、それこそ「健康のためなら死んでもいい」ならぬ「脱原発のためなら死んでもいい」みたいな笑えない冗談の世界です。原発や放射線「以外」から生じる問題に関しては恐ろしく世の中が鈍感になりつつある時代ですけれど(脱原発の「影」に追いやられてしまったのでしょう)、やはり大局的な視点やバランス感覚を失ってはいけないと思います。

 

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アイアム非国民

2011-05-14 23:38:38 | ニュース

 特に言及する人がいないのを見ると、それが全国的な現象なのか、たまたま私の身の回りに限って頻発している現象なのか判然としないわけですが、震災後は自販機に「売切」が目立つようになりました。元より震災後の自粛ムード、節電モードの煽りを受けて自販機は消灯を強いられ「販売中」という張り紙で存在感をアピールするという、何とも侘びしい存在となっています。別に自販機が消灯していても私は困りませんけれど、視覚に障害のある人の中には自販機の明かりを目印にしていた人もいるようで、とかく昨今の反原発フィーバーの中では弱者の存在は蔑ろにされがちですが、もうちょっと省みるべき点があるような気がしないでもありません。

 ともあれ、自販機にやたらと「売切」が目立ちます。ことによると物流の乱れが心配された震災直後よりも状況は悪化しているかに見えます。一時は水の買い占めなんて不毛なこともありましたが、そのパニックが収まった後の今の方がむしろ、水に限らぬ飲料全般で「売切」が多発しています。なぜでしょうか? これが地産地消や自給自足とは相容れない工業製品であれば、小さな部品の調達先工場が被災したというだけで生産全般に深刻な遅延が生じたりもするものですけれど、しかるに清涼飲料全体がそこまで大打撃を受けたとも聞きませんし、何より小売店に行けば既に品薄は概ね解消しているわけです。じゃぁ、どうして自販機はことごとく「売切」ばかりなの?と。

 結局のところ自販機のように生活に必須ではなく、何となく浪費っぽいイメージのあるものは、こういう空気の中では槍玉に挙げられがちです。石原慎太郎もそうですし、石原に反対しているつもりの人でも自販機を消せと怪気炎を上げていたことを思い出します。こんな時代ですから自販機は肩身が狭い、消灯するだけに止まらず、適度に品切させることで窮乏ムードに追従し、自粛ムードに同調しないと叩かれてしまう、そういうベンダー側の防衛意識でも働いているのでしょうか。欲しがりません勝つまでは! 贅沢は敵だ! ……こういうノリに同調しなければ非国民ですから。

 さて、主立った週刊誌の内では最初期に「放射能が来る!」と恐怖を煽ったことで知られるAERAですが(戦前に朝日新聞が果たした役割を今度は自分たちが担おうという気構えが感じられますね)、こんな中吊り広告を掲載していました。中身は読んでませんが、とりあえず「東大は東京ディズニーリゾートより電力を使っている」のだそうです。どういうカラクリがあるのかは知りませんが、一般的な同規模の大学に比してどうなのかを考えるのではなく、ディズニーランドを比較対象に持ってくる辺りがいやらしいですね。東京大学の教授は放射能の恐怖を煽るのに同調してくれない人が多いせいでしょうか、腹いせに東大にネガティヴなイメージを植え付けようとする発想が窺われます。

 一方こちらは、週刊現代です。「東大の先生は買収されている」ですって。こういうことを言う輩は昔から数多いたわけで、私も古くは「あなたは公務員でしょう」云々と言われたものですし、昨今では「東京電力の関係者ではないか」みたいに影で囁かれてもいるみたいです。もっとも上杉隆みたいに、マトモなところからは決してお金をもらえないであろう人の僻み記事の方がよっぽど信頼が置けないような気がしないでもありませんが――ともあれ原発事故以降の盛り上がりの中では、今まで以上に世間の大きな「波」に抗うことが難しくなってきたように思います。科学的には正しい発言であっても世間の潮流に棹さすものであれば「買収されている」と罵倒されてしまう、嫌な時代になったものです。

 ちなみに「日本全国で合算した」発電施設の「設備容量」と電力消費量を並べて「電力は足りる」と言い張る人も散見されるわけですが、そんな楽天家の1人として知られる広瀬隆氏がお笑いダイヤモンドで「今年の夏が昨年のように猛暑になることはまずあり得ないので、余裕をもって乗り切れます」と断言していました。電力を融通できない東と西で電力需要が偏ったり、発電施設が設計上のフルパワーを発揮できなかったりすれば普通に危ういことは言うまでもありませんが(だから電力会社は「想定外」の事態に備えて発電量に余裕を持たせてきたのです)、それにしても「今年の夏が昨年のように猛暑になることはまずあり得ない」とは、何を根拠にしたものなのでしょうかね。基本的に根拠は問わず、力強く断言してしまえばそれで済まされるのが特色のメディアに載った文章ではありますけれど……

 まぁ、確率論上で言えば、昨年ほどの猛暑になる可能性は低いとは思います。ですがそれを言うなら福島を数百年に一度クラスの地震と津波が襲う確率なんて、猛暑到来の確率とは比べものにならないほど低かったはずです。いうまでもなく浜岡を電力会社の想定を超える巨大地震が防波堤完成前に襲ってくる可能性だって、ましてや津波にあって深刻な事故に繋がる可能性となるや、猛暑になる可能性に比べれば格段に低いわけです。にも関わらず、原発を語る際には数百年に一度レベルを想定せよと要求し、一方で電力供給に関しては数年に一度レベルの猛暑の可能性を「まずあり得ない」と切り捨てる、救いようのないバカです。数年に一度レベルの事態すらも想定しようとしないのは、福島の事故から何も反省していない証拠と言えます。

 ちなみに電力不足への対応として節電を強いられるわけですが、産業界への影響、ひいては自分にとっても死活問題である雇用の問題もさることながら、普通に人命の問題も出てくるでしょう。その辺はこちらでも触れましたけれど、熱中症の死者は相当に増えそうです。今から猛暑を心配しているのは暑がりの人が多いと思いますが、むしろ死の危険があるのは「暑くても平気」に感じられてしまう人々だと思います。多くは体力のない高齢者ですね。高齢になるとどうしても、暑さ寒さへの感覚も鈍ってくるようで、自分では平気なつもりでも気づいたときにはすっかり体を悪くしてしまっているケースが少なくないと聞きます。節約ムードの中、「自分は平気だから」と冷房を止めた高齢者が具合を悪くする事態は、猛暑ともなれば間違いなく増えることでしょう。どうにも反原発気運が盛り上がる中、電力不足の煽りを受ける人の存在は蔑ろにされがちですけれど、せめて自分は隅に追いやられる人々のことを忘れないでいたいです。

 

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求人と実際の業務内容が違うのなんて当たり前だろ?

2011-05-12 23:17:29 | ニュース

運転手のはずが原発敷地内作業…あいりんで紹介(読売新聞)

 大阪市西成区・あいりん地区の60歳代の男性労働者2人が、宮城県でダンプカー運転手として働くとの求人に応募したところ、実際には福島県の東京電力福島第一原子力発電所敷地内などで働かされていたことが9日分かった。

 求人の際に労働条件を明示するよう定めた職業安定法に違反している疑いがあり、大阪労働局が調査に乗り出した。

 仕事を紹介した財団法人「西成労働福祉センター」によると、岐阜県大垣市の建設業者から3月17日に「宮城県女川町で10トンダンプの運転手、日当1万2000円で30日間」と求人があり、2人に紹介した。2人は採用されたが、同月24日、1人から同センターに「原発が見える場所で作業をしている。求人と条件が違う」と苦情の電話があったという。1人は5、6号機の外で防護服を着てタンクから水を運ぶ仕事に4月21日まで従事。求人条件の2倍ほどの約60万円の報酬を得たという。もう1人は原発敷地外でタンクローリーで水を運ぶ作業をしていた。

 日本における暗黙のルールとして求人広告には虚偽記載が許されているのですから、別に驚くことはないでしょう。今回の紹介者は財団法人とのことですが、ハローワークなどの公的機関でも求人の際に示された労働条件や業務内容が実際と大きく異なるのは何も珍しいことではありません。それが当たり前であるが故にニュースになどならない、労働者側も日本で働く以上は覚悟が出来ているのか苦情など出さないのが普通です。ましてや日本随一のドヤ街として知られるあいりん地区の求人とあらば、事前に説明された通りの仕事であると期待する方がどうかしています。まぁ、強いてこの報道から「珍しい」部分を抜き出すとしたら「求人条件の2倍ほどの約60万円の報酬を得た」という点ですね。これは非常に珍しい、全国紙が取り上げるに値するほどの希少価値を持ったニュースに違いありません。

 それだけ原発に対して世間はセンシティヴであると言えます。普段は職業安定法への違反など気にしない、日本にもドヤ街と呼ばれる地域があってそこの人々がどんな生活を送っているかなど気にしない、そんな冷淡な世論も原発関係となれば話は別です。死亡災害が際立って多い林業を成長産業と呼び、職にあぶれた人々に対して「林業でもやれば」などと宣っていた連中ですら、原発周辺での死者でも出ようものなら上へ下への大騒ぎでしょう(まだ誰も死んでいませんし、今後もそういうことはなさそうですが)。してみると原発で働いた方が下手な職場よりもずっと安全面では配慮されているのではないかという気がしますけれど、それでもイメージ的に原発関係は嫌だと、そういう気運が形成されているわけです。あの従順な日本の労働者が苦情を申し出たり、あろう事か全国紙が取り上げるに到るとは、よほど日本人の心の中に占める「原発」のウェイトは重いのでしょう。


女川原発、運転再開容認する考え…石巻市長(読売新聞)

 東日本大震災で緊急停止した東北電力女川原子力発電所(宮城県女川町、石巻市)について、石巻市の亀山紘市長は9日の記者会見で、「安全対策をした上で再開する方向で考える必要がある」と述べ、運転再開を容認する考えを示した。

 女川原発の再開容認は、地元首長で初めて。

 女川原発は、運転中の1、3号機と、定期検査で原子炉が起動中だった2号機が、地震でいずれも自動停止している。亀山市長は「(地震で起きた)配電盤火災などは安全対策をしてもらわねばならない」としながら、「福島第一原発のようにならなかったことで、津波対策はある程度評価している」と語った。

 東北電力と地元との安全協定で、再稼働は県と地元2市町の了解が必要。宮城県の村井嘉浩知事は9日の定例記者会見で、「応急対策をしているか、まず政府で判断して頂く」と述べた。女川町の安住宣孝町長は先月26日の原発視察の際、「電力復旧のための環境を整える必要がある」と発言している。

 一方、こういう時代にこのような判断を下した石巻市の市長(ちなみに共産党支持で当選した候補です)には敬意を表したいと思います。各地のお調子者がそうしているように取りあえず原発を罵っておけば世論のウケが悪くない中で、敢えて嫌われる方向を選べる、こういう政治家が必要なのです。安易に世論に媚びを売って、それで悪い結果を招いても誰かを「犯人」に仕立て上げれば政治家本人は免責されがちなご時世ですけれど、それで不幸になるのは住民なのですから。原発反対と叫ぶのは簡単だけれど、それで電力不足=生活インフラの崩壊を招いたら目も当てられません。住民が生活に支障を来したとしても「これは原発推進派の陰謀だ!」と叫べば自身の政治生命は延命されるかも知れませんが、それはやはり政治家として無責任にすぎます。「脱原発が第一」なのか、それとも住民の生活を犠牲にしない範囲でより良い方向を探っていくのか、世論は前者寄りであろうとも、生活者を大切にしているのは間違いなく後者の方です。


浜岡停止で火力再稼働、歓迎と注文が交錯の地元(読売新聞)

 中部電力浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)の全面停止に備え、同社は代替電力源として休止中の火力発電所の再稼働を検討している。

 休止中の炉がある火力発電所を抱える自治体からは、「地元経済への波及効果が期待できる」と歓迎の声が上がる一方、「付近住民の安全や環境対策には十分留意してほしい」との注文もつけられた。

 三重県尾鷲市の尾鷲三田火力発電所は、出力37・5万キロ・ワットの1号機が休止中。中部電力に対し、日頃から発電所の稼働率アップを求めてきた岩田昭人市長(60)は、「稼働率が上がれば、尾鷲港に入港するタンカーの数が増えるなど、地元経済への波及効果があるだろう」と期待を寄せる。

 一方、同発電所が海の近くにあることから、「大きな地震や津波が起きた際、燃料貯蔵タンクの安全が保てるか心配だ。防火対策に万全を期すよう要望したい」と話した。

 で、当面の代替電力源としては休止中の火力発電所の再稼働が検討されています。休止中と言うからには老朽化もそれなり、旧型で発電効率も悪そうな気がしますが、とにかく住民の生活インフラでもある電力供給を維持するためには背に腹は代えられません。とはいえ、この火力発電所の再稼働に期待する向きもあれば、懸念する向きもあることが伝えられています。前者は地元経済への波及効果を期待する声で、まぁ話は簡単に進むまいとは思いますが、取りあえず原発「以外」でも地元に利権を持ってくることはあるわけです。福島の原発事故を見て、「補助金に目がくらんで原発を誘致した側にも責任はある」みたいなことを述べていた人もいたものですが、原発でなくとも大きな施設を招けば金は動く、金が動けば利権は生まれるということは理解すべきだと思います。実際、引用元で伝えられているように地元の市長は発電所の稼働率アップを以前より求めてきたのですから! 一方で「防火対策に万全を期すよう要望したい」との声もあります。どうにも原発「以外」安全神話が形成されつつある昨今ですが、原発以外にも、というより原発以上のリスクはいくらでもあるのです。原発でさえなければOKと惚けたことを抜かしていると、遠からず痛い目を見るのではないでしょうかね。

 

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石原と一緒になって「我欲」を叩いている人も多いけれど

2011-05-08 23:12:22 | ニュース

 石原慎太郎が東日本大震災に際して「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べたのは記憶に新しいところですが、この発言に対して石原慎太郎に反対しているつもりの人から「我欲にまみれているのはおまえの方だ、天罰を受けるべきはおまえの方だ」的な声が出てきたわけです。両者とも世間が「我欲」にまみれているという認識では一緒ですし、実際のところ石原も石原に反対しているつもりの人も「今までが過剰だったのだ」と節制ムードを歓迎している辺りでは差がなかったりするもので、どうも震災を機に石原と石原に反対しているつもりの人々が同じ方向を向きだしたように私には思われます。

 両者に「違い」を見いだすとしたら、誰を指して「我欲」の持ち主と想定しているかが挙げられます。「自分が否定的に見ている相手」という点では同じですが、まぁ石原にとっては被災者を世間一般、強いて言えば自分以外の全てでしょうか。逆に石原に反対しているつもりの人々の念頭にあったのは、被災者を除く世間であり、政治家なり財界人なりの特権階級、もう少し広げれば「贅沢」な暮らしを送っている人々でしょうか。ただ「我欲」にまみれているのであれば「天罰」を食らっても致し方ないのか、その辺は問われてしかるべきです。石原発言に反発した人の多くは、被災者は我欲にまみれてなどいないと考えているのかも知れませんが、では被災者が我欲とやらにまみれているのであれば、天罰を受けても構わないと考えるのでしょうか?


被災地民がプロ乞食過ぎると話題に。酒やタバコ、ノートPCに40型TVを支援物資として要求

勘違いな要求をするプロ乞食(避難者)一覧
http://blog.goo.ne.jp/hunter-cub/e/099fda376f790b314cf68d8a848e28c2
下記は一例、上記のリンクに多数あり

宮城県石巻市大原浜町:(個人名)
http://fumbaro.org/news/campinfo/aizawa-sato.html
たばこ×2カートン
酒×2
ビール×6缶+1ケース、350ml×6缶
麦焼酎×4?
つまみ(イカ・豆など)×8袋

岩手県陸前高田市:(個人名)さま・(個人名)さま宅
http://fumbaro.org/news/campinfo/post-138.html
◆寝具・家具・家電
ノートパソコン(NEC LaVie L LL750_DS) ×2
複合プリンタ(PIXUS MG6130)×1
ScanSnap & 楽2ライブラリ パーソナル× 1

宮城県石巻市北上町:(個人名)さま宅
http://fumbaro.org/news/campinfo/post-66.html
【希望物資】 ご協力お願いします!
テレビ (できれば40型) ×1

宮城県牡鹿郡女川町:(個人名)さま宅
http://fumbaro.org/news/campinfo/onagawa-suzuki.html
日本酒×1
焼酎×1
ビール360ml×6
タバコ(マイルドセブン10) ×適量

 この辺はヘイトスピーチ系のサイトが好んで取り上げているものですが、取りあえずこういう「リクエスト」があるのは確かです。まぁ、考えるだけで気分が重くなるほど多数の被災者がいる中から選りすぐってもこの程度しか出てこないのだから大したことはないとも言えますし、リンク先は軒並み消去されてしまったようですが論われているのはamazonと提携したプロジェクト(寄付したい人が被災者の代わりにamazonで商品を購入→被災者宅に配送)ですので、具体的に型番が指定されているのは選ぶ人の手を患わせないための親切と見るべきでしょう。ましてや寄付にかこつけて不要品を送りつける人も多いですし、そうでなくとも寄付する側の「これが必要だろう」という思い込みは被災者側の「これが必要」という実態とは残念ながら大きくかけ離れており、支援物資がムダに倉庫を圧迫している実情もあります。出来るだけ具体的に商品を指定するのは寄付する側の負担を減らす意味でも有意義ですが――その支援希望物資に少なからず嗜好品が含まれているのが、ある種の人にとっては理解できないようです。

 例えば被災地に古着を送りつける人もいます。被災者側からは概ね迷惑がられると聞きますが、送る側からすれば「ありがたく思え」といったところなのかも知れません。そこで結局は送られた古着が倉庫に山積みとなり廃棄されたりするわけです。支援する側は「これでもないよりはマシだろう」と思うのでしょうけれど、被災者側は「もうちょっとマシなものを着させてくれよ」と感じるものなのでしょう。とかく我々の社会では被害者を「無辜の民」のごとく思い描きたがります。被害者は無謬の汚れなき存在であり、反対に加害者(昨今であれば東京電力など)は何から何までが悪であるかのごとく位置づけられがちです。とはいえ、被災者や被害者だって普通の人なのです。被災者だって「もっと楽をしたい」「ちょっとぐらいは良い思いをしたい」という欲望を抱えているのが普通です。ただ命を繋ぐだけの食料ではなく、酒やタバコなどの贅沢品が恋しくなるのも当たり前のことでしょう。しかるに世間は、被災者に「慎ましさ」を要求してしまう、そして被災者が「慎ましく」振る舞っている間は同情を示すけれども、被災者が「我欲」を見せると掌を返してバッシングに走るわけです。


「かわいそうな被災者」という勝手なイメージを押しつけてはいけない(DIAMOND online)

 まだそれほど多くはありませんが、ネット上で被災者に対する批判が見られるようになってきました。被災者がいま欲しい物を要求しただけで「何でももらおうとする」「要求が多い」というのです。

 その被災者は、聞かれたから答えただけでしょう。

 逆に、人をムカッとさせるようなことを言う被災者がいるのも事実です。

 しかしこれは考えてみれば、ごく当たり前のことなのです。被災地にいた人は、全員が人格にすぐれた人であるはずはありません。もともと図々しい人も、だらしない人も、人に素直に対応できない人も、意地悪な人も打算的な人もいるはずです。そのような人がたまたま被災したことで、それまでの人格がすべて一新され、純粋で善良な人に変わることなどあり得ないのです。前回書いたように、人は急に変らないものです。

 「辛い情況に健気に耐える善良な人たち」

 私たちは、被災者に対してこんな像を作ってしまっていないでしょうか。今回の被災者は東北の人が多いので、お話を聞いていると確かに謙虚で純粋な方も多いです。ただ、その像にマッチした人を取り上げるマスコミの姿勢との相乗効果で、そうした「被災者人格」のようなものが増幅されている感は否めません。

 私は別に、被災者が「石原慎太郎と違って」我欲のない善良な人たちだとは思っていないですし、だからといってそれが非難に値するとも思わないわけですが、石原発言に対して「我欲にまみれているのはおまえだ」的な噛みつき方をしていた人はどうなのでしょうか。欲を抱えていることが非難に値するというのなら、被災者だって罰を受けてしかるべきということになってしまいます。そこはもうちょっと、他人の「欲」に対して寛容になってもいいのではないかと私は訴えたいところです。被災者を無欲な「辛い情況に健気に耐える善良な人たち」であるかのごとく思い描くことは、被災者がその勝手なイメージから外れたときにバッシングに走ることにも繋がっています。

 

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菅にとっては簡単な決断なんだろうけれど

2011-05-07 23:00:03 | ニュース

首相唐突また保身? 浜岡、訴訟怖さからの「クセ球」 菅降ろしの機先制す(産経新聞)

 菅直人首相が中部電力浜岡原子力発電所の全面停止を唐突に打ち出した。実は原発差し止め訴訟によるダメージを恐れただけのようだが、東京電力福島第1原発事故の対応批判で「菅降ろし」に弾みをつけようとした民主党の鳩山由紀夫前首相や小沢一郎元代表は機先を制せられた。首相の保身術は思わぬ「クセ球」を生むようだ。

 「国民の皆さまに重要なお知らせがあります。私は首相として…」

 緊急記者会見でこう切り出した首相はいつになく生気に満ちていた。「首相として」を何度も繰り返し、自らの決断を強調した。

 だが、首相が事務レベルと協議した形跡はない。首相周辺は「会見直前に決めた」と打ち明け、経済産業省幹部も「まったく知らなかった」とこぼした。

 そもそも浜岡原発に関心があったわけではない。2日に福島瑞穂社民党党首から「ぜひ浜岡原発を止めてくださいね」と迫られた際は「ヒャッハッハッ…」と笑ってごまかした。

 だが、首相は同日夕、福島氏から弁護士グループが浜岡原発差し止め訴訟を準備していることを電話で知らされる。「次のターゲットは浜岡原発だ」。やっと気付いた首相は、海江田万里経産相に浜岡視察を命じ原発停止に動き出した。

 どことなくスポーツ紙みたいな語り口の記事ですが、他紙の報道と照らし合わせても、この浜岡原発停止の指示が唐突なものであったことは間違いないようです。その唐突な決断に到る理由に関しては各紙それぞれ邪推しているわけですけれど、行政サイドからすれば最も簡単な方法を選んだな、というのが私の印象です。民意に媚びる決定を下しておけば当面の社会的な批判からは免れることが出来ますし、その結果として生じる弊害についても、今であれば電力会社を悪者にして済ますことが出来るでしょう。これで電力不足が深刻化して経済や労働環境、ひいては住民の生活に悪影響が生じても電力会社に責任を押しつけることで、自らは「国民のために原発を止めた」という手柄だけを独り占めに出来る、国民にとってはいざ知らず自身の保身のためには、これがベストの判断と思えたのかも知れません。


浜岡原発、全面停止へ 首都圏・関西でドミノ式需給逼迫 全国的な電力不安も(産経新聞)

 菅直人首相の要請を受け、中部電力浜岡原子力発電所の運転を全面停止した場合、同社の今夏のピーク時の電力は余力がほとんどない状態に陥る。中部電から東京電力管内への融通電力が途絶える可能性や、全国の原発の安全確保に伴う運転停止に加え、政府は関西電力にも融通電力を要請しており、全国的な電力不足が発生する恐れがある。

 海江田万里経済産業相は中部電の原発の運転停止に合わせ、関西電力に電力融通を要請したことを明らかにした。浜岡原発の停止分の電力供給を補うためだ。

 中部電が保有する原発は、浜岡原発の3~5号機のみ。同社の電力供給力約3263万キロワットのうち、約11%の約350万キロワットを占めるが、石油火力発電所などと違って24時間運転するため、発電電力量は全体の14%(平成21年度実績)に当たる。現在、3号機が定期検査で停止中で、4、5号機とも止まると、原発からの電力供給はゼロになる。

 中部電の昨夏の最大電力需要は2621万キロワット。予期しない電力需要の伸びに備え、8~10%程度の余裕を持っておく必要もあり、需給は逼迫(ひっぱく)する。

 これまで供給力不足に陥っている東電に電力融通をしてきたが、これを自社管内に回す必要が出てくれば、首都圏の電力供給も不安定さを増す。

 こっちは普通に書かれた記事です。まぁ停止させられるのが浜岡「だけ」なら夏場にもギリギリ電力を賄える見込みのようですが、しかるに「北からミサイルが飛んでくるぞー」みたいな勢いで「原発が爆発するぞー」と煽っている人々って、こういう「余力なし」の状態には危機を感じないものなのでしょうか? 何事も余力を残さない設計は非常時への対応能力を損ねるものです。電力供給に関しては「何事も起こらなければ問題ない」というレベルで十分だと思っているのであれば、それこそ今回の震災や原発事故から何も学んでいないと言わざるを得ません。電力供給に関しても想定外の事態に耐えられるだけの余力を持たせておいてこそ、住民の安全を担保できると思うのですが…… 原発推進に関わった人のウソは汚いウソ、原発反対の人が語るウソは善意の言葉みたいに扱われがちな昨今ですけれど、原発に直接起因する問題は絶対に避けよと訴える一方で、原発停止の弊害として出てくる弊害に対しては「痛みに耐えよ」と言い放つようであれば、むしろ原発に対して向けられているヒステリーの方こそ我々の社会を傷つけるものとなるでしょう。


 産業界は、電力不足の東日本での節電を徹底するとともに、事業拠点や生産活動を西日本へシフトする動きを強めている。今回の浜岡原発の停止は、津波対策の強化などに必要な「おおむね2年程度」(経済産業省原子力安全・保安院)の見通しだが、首都圏の供給不足とともに、中部、西日本の安定供給にも不安が生じる。

 中部地方は、トヨタ自動車を頂点に、自動車関連産業が集積する。三菱重工業の城下町でもある。関電から中部電への電力融通が行われれば、電力不足に対する不安が日本全体を覆うことになり、経済活動への影響は深刻だ。

 電力融通に協力する方針の関電も、発電電力量の45%を原発に頼っている。美浜原発1~3号機など、運転開始から40年前後たつ古い原発を抱える。

 西川一誠福井県知事は6日、関西電力美浜原発1号機など県内にある定期検査中の原発の再起動について、現時点では認められないとする談話を発表した。電力供給力が一気に低下するのは避けられず、全国的な需給逼迫が、現実味を帯びてきた。

 ちなみに東京電力管内の電力不足は元より想定されていたことで、電力消費量の多い製造業が西日本にシフトするみたいな動きも伝えられていたものですが、どうも西日本までもが電力不足になる、電力供給が不安定化する恐れが出てきてしまいました。これが浜岡「だけ」に止まってくれれば何とか乗り切れるのかも知れませんが、他所の原発でも点検で止めたら最後、もう再稼働は許されないかのごとき状況が作られつつあります。元より築40年ともなれば原発でなくとも寿命が疑われるところですけれど、かといって外部電源が切れても自動的に冷却されるような仕組みを備えた現行世代の原発が新造されることもないでしょうから、まぁ火力発電を頑張るしかないわけで、今後の見通しは決して楽観視できるものではありません。こうなるともう、製造業は外国に出て行くしかない、とりわけ電力不安の影響を受けやすいハイテク産業ほど日本からの脱出を考えざるを得ない状況になることでしょう。必然的に雇用機会も減り、社会的に弱い人ほどしわ寄せを受けるものです。総合的に見てバランスのとれた判断を下すべきなのか、それとも国民が過敏になっているものを脇に追いやることを優先し、その弊害は無視するのが正しいのか、その辺は考えて欲しいところです。


値引きは当たり前......営業、ライブが飛び死活問題の若手芸人たち(サイゾーウーマン)

 「FRIDAY」(講談社、5月13・20日号)の「人気芸人50組『気になる最新ギャラ』大調査」という特集で、震災後の若手芸人たちの厳しい状況が紹介されている。震災後、広告収入が激減したテレビ局が決して高くはない若手芸人たちのギャラまで、ダンピングを始めているというのだ。

「最近のブレイク芸人のギャラの基準はゴールデンタイム1時間で25万円が目安。有吉弘行などテレビで見ない日はない売れっ子で、この額です。ネタ番組で見るレベルなら5万円程度ですが、震災後はこの額でも30~50%引きになることは珍しくない。それでも断ると仕事が来なくなるので、泣く泣く2~3万円のギャラでも引き受けている状態です」(お笑い事務所マネージャー)

 しかし、それでもテレビの仕事がある芸人たちは恵まれている方だと語る。3月11日に発生した東日本大震災の影響により電気の供給不足が心配されていることから、ライブハウスや興行先がイベントを自粛。そのため直接被害はなかった西日本でのイベント、営業なども軒並み中止となり、"営業芸人"たちは窮地の状態に追い込まれている。

 製造業にとっても震災と電力不足は大きな打撃ですが、それ以上に深刻な影響を受けているのは娯楽やレジャー関係なのかも知れません。自粛ムードもさることながら、節制気運が高まる中では生活に必須ではないものから「ムダ」として切り捨てられやすいわけです。そうやってムダを切り捨てていった結果として余力のない社会が作られるのですが、何はともあれこうした「ムダ」で生計を立てている人が食いっぱぐれるであろうことは想像に難くありません。まぁ、お笑い芸人なんかいなくたって人間は生きていけますけれど、非生産的な生き方が許容されない社会ってのも悲しくないでしょうか。我欲を捨てた働く機械や産む機械だけになれば無駄な消費も減って低エネルギー社会の実現に近づくのかも知れませんが、人間がただ生きていく上では必ずしも必要ではない「余剰」にどれだけ居場所を与えられるか、社会の豊かさはそう言うところで計られるものだと思います。

 

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デマを流す側に回ったら、もう終わりだと思う

2011-05-06 22:55:37 | ニュース

keigomi29氏「(三流の)ジャーナリストと、(普通の)科学者の考え方の違いを揶揄的にまとめてみる。」

【4】 (普通の)科学者は事実から論理を導き出す。 (三流の)ジャーナリストは論理にあう事実を見つけ出す。なければ創り出すこともある。

【8】 (普通の)科学者は見つからないものはないのかもしれないと考える。 (三流の)ジャーナリストは見つからないものは隠されていると考える。


「チェルノブイリ番組、NHKオンデマンドから削除」のデマ広がる(ニコニコニュース)

「チェルノブイリ原発事故についてのドキュメント番組が、NHKオンデマンドから削除された」――こんなデマがネットで広まっている。NHKは「もともとNHKオンデマンドに掲載していない番組。誰が言い始めたのだろうか……」と困惑している。

NHKオンデマンドから削除されたという誤解が広がっているのは、1996年にNHKがテレビ放送した「終わりなき人体汚染~チェルノブイリ事故から10年~」。チェルノブイリ原発事故から10年経った96年に、放射能の人体への影響をまとめたドキュメント番組だ。

NHK広報室は、「もともとオンデマンドで配信しておらず、掲載も削除もしていない。1996年と古い番組でもあり、今後配信予定もない。原発問題についてはETV特集などで報道している」と話している。

参考、「NHKオンデマンドでチェルノブイリ事故関連番組が削除された」情報拡散&認知的不協和解消発言と、実際の事実確認

 まぁ、三流ジャーナリストが闊歩しやすい状況が続いているのでしょう。流行に乗じておけば、何でも許されがちですから。例えば公務員叩きであれば、データや比較対象の不適格さ、情報の確かさといったものは概ね不問に付されていたものですが、震災後はその対象が広がっているように思います。社会にとっての「共通の敵」として認識されている対象に対しては、虚偽に基づく非難でも許される――その対象として東京電力であったり原発であったりが組み込まれるようになったようで、今回は「チェルノブイリ原発事故についてのドキュメント番組が、NHKオンデマンドから削除された」という手間を広めようとした人が出てきたわけです。上で書かれているように、元よりNHKオンデマンドに掲載していない番組であって、完全に根も葉もない悪質なデマといえますが、こうした陰謀的なものを匂わせる言説が受け入れられやすい状況が作られているのでしょう。

 別に現行の公務員制度に批判の余地がないとは言いませんが、そうは言っても横行する公務員叩きの大半はトンデモで、それを全面に掲げている人は基本的に信用しない方がいい、一定の批判的検証抜きに鵜呑みにすべきではないものとして扱ってきたわけです。そして今後は原発批判をしている人に対しても同様の警戒感を以て接した方が無難であるような気がしてきました。とにかく「敵」を叩くことに繋がればウソでもデマでも何でもあり、こういう状況に飲み込まれないことを心掛けるのが理性的な振る舞いではないでしょうかね。とかく流行りの説には、立ち止まって真偽を考えてみる必要があると思います。

 

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実は深刻な事態もあれば、過剰反応としか思えないこともある

2011-05-03 22:50:41 | ニュース

節電…暗い道・動かぬエスカレーター 障害者「外出怖い」(産経新聞)

 東日本大震災の影響で節電ムード一色になるなか、障害者に不安が広がっている。エスカレーターの停止で通い慣れた道がつかえなかったり、照明が消えた暗い道で転倒したりするためだ。大規模停電回避に必須の節電だが、外出を控えるようになった人もおり、バリアフリーへの配慮が求められている。(油原聡子)

 ◆階段に気づかず転倒

 「目印にしていた案内板や自販機の照明が消えると方向感覚を失ってしまう。いつも使う階段がどこにあるかもわからなくなる」

 こう訴えるのは、「網膜色素変性症」の患者らでつくる団体の会長を務める金沢真理さん。この病気の主な症状に、暗いところでものが見えなくなる夜盲症(とり目)がある。

 普段は問題がなくても、暗くなって目印が失われると、エスカレーター停止のロープに気づかずひっかかったり、階段に気づかずに転倒したりするという。実際に骨折した人もいる。

 地下鉄などでは案内板の照明も消されているため、乗り換えや改札がわからなくなることも。障害者や高齢者の使用が想定されるエレベーターの案内板の照明まで消されている駅もあり、視覚障害者からは「駅の改札や階段を使うのが怖い」という声が上がる。

 ◆「命にかかわること」

 視覚障害者だけではない。身体障害者にとっても“いつもの経路”が使えないのは大きな不安だ。

 筋ジストロフィーを患い、足に障害のある東京都世田谷区の女性(43)は「なるべく外に出ないようにしている。出かけるとしても1人では無理」と打ち明ける。転倒したら1人で起きあがることができないからだ。

 エスカレーターの停止で混雑した階段は他人にぶつかる可能性を考えると怖くて下りられない。女性は「案内板にも停止場所を記してほしい」と、具体的な節電場所の情報を求める。

 東京メトロは、具体的な節電対策は各駅の判断に任せており、一律の対応は難しいという。

 ただ、案内板の点灯などバリアフリーの対応も順次進めるとしており、「できるだけ不便を取り除きたい」と話す。

 バリアフリーに詳しい慶応大学の中野泰志教授(障害心理学)は「節電は仕方ないが、障害者にとっては我慢できるできないの話ではなく、生死にかかわること。不便を感じても言いだしにくい雰囲気になっている。公共機関では、照明のついた安心安全なルートを確保すべきだ」と話している。

 この記事に関しては、特に私がツッコミを入れるべきところもないと思います。とかく節制ムードが高まりがちな昨今ですけれど、「障害者にとっては我慢できるできないの話ではなく、生死にかかわること」との指摘には真摯に耳を傾けるべきでしょう。にも関わらず「今までが便利すぎたのだ」とばかりの論調が幅を利かせ、「不便を感じても言いだしにくい雰囲気になっている」わけです。心身共に健康な人には便利さが過剰に見えるところもあるのかも知れませんが、その便利さで助けられている人もいることを忘れて欲しくはないものです。しかるに昨今は「大きな流れ」に飲み込まれる形で弱者への配慮が蔑ろにされているようにも見えます。引用元では冒頭に「節電ムード一色」とありますけれど、今のように世間が一色に染め上げられていくなかでは、規格外品(=少数派)は排除されがちなのでしょう。

 放射線に対する恐怖の煽りを受けて差別される人々、節制ムードの中でつまはじきにされている人々、そういう大きな流れから外れた人々に目を向けているのが週刊ポストだったり今回の産経新聞だったり、普段は常軌を逸した記事が特徴のメディアばかりだとしたらあまりにも悲しいです。一方、日頃は右派から「サヨク」と見なされているメディアは毎日新聞を筆頭に、すっかり「ブルジョア新聞」たる本領を遺憾なく発揮、ゆとりある中産階級の目線から高説を垂れるばかりです。あらゆる紙面をくまなくチェックしているわけではないだけに私が見落としているだけの可能性もありますが、どうもメディアの立ち位置ならぬ左右の立ち位置もまた、原発事故を契機に揺れ動いているかのようです。


郡山市の校庭表土除去、見直しも 運搬先の住民猛反発(朝日新聞)

 放射性物質を除去する目的で、福島県郡山市が小中学校や保育所のグラウンドの表土を削り取る作業を始めたことに、土を運び込む予定だった処分場の付近住民が猛反発している。処分への理解が得られないため、市は新たな対応を迫られている。

 郡山市は市立の28施設で表土の除去をする予定で、27日は薫(かおる)小学校と鶴見坦(つるみだん)保育所で表土を削った。薫小学校では作業後、集めた表土を校庭に積み上げ、ブルーシートをかけた。削り取った土は同市逢瀬町河内の河内(こうず)埋立処分場に運び込むことを予定していた。

 ところが、この日夜に学校教育部長や生活環境部長らが参加して処分場付近の住民向けの説明会を開いたところ、集まった約80人から批判が続出。「地域に事前の説明なしで、なぜ物事を進めるのか」「バカにするな」「国や東京電力がやるべき問題で、市がやることではない」と、市の姿勢に怒りの声が上がった。

 市は安全性について「運ぶのは格別に高い汚染の土壌ではない」などと説明。だが、文部科学省が表土を削らなくても利用時間を限れば安全とするなかで市が独自に取り組んだことに、ある女性は「市の勇み足だ。国がノーと言っているのに、なぜ、市だけが急ぐのか」と詰め寄った。

 さて、今度は元祖ブルジョワ新聞である朝日からの引用になります。何でも除去した校庭表土を処分場に運び込もうとしたところ、付近住民から猛反発を買ったとか。ふむ、埋立処分場と住宅の距離次第で情状酌量の余地も出てきそうですが、色々とツッコミどころはありそうですね。

 学校周りの放射線量に関する「暫定」基準値が年間20mSvを設定されたことには「高すぎる」との反応も目立ちますが、あくまで夏休み終了までを目処とした暫定値であって、将来的な放射線量の低減を鑑みれば特に気にするほどでもないように思います。むしろ運動不足の方が健康には悪影響がある範囲ですね。放射線「以外」のリスクを存在しないかのごとく扱う風潮も強いですけれど、放射線以外の要因でも体を悪くする人は悪くするものですし、死ぬ人はいつだって死ぬものです。総合的なバランスを考えるなら、この辺の線引きは妥当な範囲なのではないでしょうか。

 ただ、学校の校庭ともなれば派手に砂埃が舞い散るわけです。その砂埃の舞い上がる中で運動したり、地べたに座らされたりするのであれば、もうちょっと厳しめに考えた方がいいのかも知れません。その辺を鑑みてかどうかは知りませんが、自治体側で独自にグラウンドの表土を削り取るという処置を執るところが多いようです。まぁ、これくらいなら別にデメリットもないですし、念には念を入れるということで悪くない対応ではないかと思えるのですが――削り取った土砂を埋めるべき処分場の近隣住民から猛反対されていることが今回の記事で伝えられています。

 普通のゴミとか、校庭に限らず生活圏にあると困るけれど、処分場に埋められている限りは困らない、そういうものも多いわけです。他所で邪魔になったものを隔離しておくのが処分場でもありますから。どのみち近隣の学校でそれなりの放射線量が観測されるのであれば、同じ市にある処分場周辺でも同等の放射線量は観測されているはず、そこで土を移送したところで特に処分場の放射線量が増減するわけでもないでしょう。ただ単に土砂が風で巻き上げられやすく、かつ人が密集する場所から、取りあえずその中に住んでいる人がいるわけではない場所に埋める、それだけのことです。

 「国や東京電力がやるべき問題で、市がやることではない」という「怒りの声」も、何だかなぁと思います。まぁ、こうなった責任を問われるべきは国であったり東京電力であったりするのかも知れません。ただ「悪いのは東電だ」と息巻いて東京電力が出てくるまで手を拱いているとしたら、結局は問題解決が遅れるばかりです。かつて「こじれている理由はひとえに中国サイドにある」から「こちらが関係修復のために何かすべきだとは思わない」と言い切ったアホ(参考)が、あろう事か官房長官の座に居座っているわけですけれど、「悪いのはアイツなんだから」と言って何もアクションを起こさないのであれば、ただただ虚しく時間を浪費するだけです。問題が深刻だと思うのであれば、取りあえず「誰が善い、悪い」の犯人捜しは棚上げして、自分たちで出来ることは自分たちでやった方が良いのではないでしょうか。学校周りの放射線量が深刻だと考えるのであれば国や東京電力が責任を取ってくれるのを悠長に待つべきではないですし、逆に現行レベルの放射線量なら大騒ぎするには当たらないと考えるのなら、処分場に埋め立てしたところで何の問題もありません。どっちにせよ市独自の取り組みは妥当なのではないでしょうかね。

 

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短慮

2011-04-30 11:59:59 | ニュース

「事実無根だ」いわき市長、官房長官発言に反発(読売新聞)

 福島県いわき市の渡辺敬夫市長は23日、記者会見し、福島第一原子力発電所の事故を受けた計画的避難区域にも緊急時避難準備区域にも同市が含まれなかったことについて、枝野官房長官が「市の強い要望に基づいた」と発言したことに対し、「強く要望したことはなく、事実無根だ」と述べた。

 渡辺市長は同日、官房長官宛てに、発言の撤回を求める文書を送ったという


いわき市の強い要望なかった…枝野氏が発言訂正(読売新聞)

 枝野官房長官は25日午前の記者会見で、福島県いわき市が福島第一原子力発電所事故を受けた避難区域に含まれなかったことを「市の強い要望」とした発言に関し、「誤解を招く発言になった。訂正したい。地域設定は国の責任においてやっている」と修正した。

 同市の渡辺敬夫市長が「強く要望したことはなく、事実無根だ」と反発していた。

 ……まぁ、枝野ならよくあることです。この人は場当たり的に嘘を吐くのが習性なんでしょうね。自身の過去の発言を棚に上げた放言も珍しくないですし(参考)、政治的な芯がないと言いますか、その時々の旗色の良し悪しに合わせて、優勢な方に着きたがるタイプなのでしょう。こうして官房長官の座に居座っている辺り自身の保身に長けるタイプではあるのかも知れませんが、これに付き合わされる国民はどうなんだろうと思わないでもありません。もっとも、流行り廃りに媚びる政治家=民意に近い政治家ですから、意外に有権者からの「感情」は満たしてくれるとも言えます。財布は満たしてくれませんが。


「排気の遅れ、水素爆発招いた」 米紙が原発事故分析(朝日新聞)

 23日付の米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)は、福島第一原子力発電所の事故について、放射性物質の外部放出を懸念し、東京電力が格納容器内のガスの排出をためらったことで水素爆発を招いたとする分析記事を掲載した。

 同紙は、同原発1号機は地震・津波の発生から半日たった3月12日午前2時半に格納容器内の圧力が2倍に達し、東電は排気を決めたとしている。

 しかし、準備などに手間取り、実際に排気できたのは同日午後。その約1時間後に水素爆発が起きて原子炉建屋が破壊された。これに伴う炉心の損傷はなかったが、「壁」の一つが失われたことでその後の大量の放射性物質の放出につながったほか、炉の冷却のための作業を妨げる原因にもなった。

 同紙によると、日米の専門家は排気の遅れで水素爆発が起きやすい条件ができたと考えている。放射性物質と水素を含む格納容器内のガスは、排気専用のパイプを経由して建屋の外にある排気塔に導かれるが、圧力が2倍になるまで待ったため、パイプの継ぎ目などからガスが漏れやすくなり、建屋内に充満した可能性があるという。

 専門家は「放射性物質の放出を心配するあまり排気に慎重になったことが、事態を悪化させたようだ」とみている。水素爆発の防止を重視する米国は、格納容器内の圧力が耐圧の上限に達する前でも早めに排気を行うことにしており、同様の方針は韓国や台湾でも採用されていると指摘している。

 米国では、1979年のスリーマイル島原発事故で作業員の判断ですばやく排気が行われ、原子力規制委員会(NRC)が追認したが、日本では排気は「最後の手段」として、電力会社のトップや政府の判断を待ってから行う体制。記事はこうした考え方の違いも排気の遅れにつながった可能性を指摘した。

 さて結果論ではありますが、格納容器内のガスの排出をためらったことで水素爆発を招いたとする分析記事が出たそうです。確かに、もっと速やかに排気が行われていれば、より悪い事態(水素爆発)は防げた可能性も十分に考えられます。とはいえ、こうした速やかな排気を現場の作業員に求めるのは、とりわけ日本では酷でしょう。水素爆発が起こったという「結果」が明らかになった今では「もっと早く排気しておけば」という判断は成り立ちやすいですけれど、水素爆発が起こる「前」では、周囲の理解も得にくいものです。仮に現場作業員の判断で排気が行われたとして、それで水素爆発が「起こらなかった」場合を考えてください。その時はきっと、いや間違いなく――自らの判断で排気、すなわちごく微量とはいえ放射性物質を排出した現場作業員が激しい糾弾の対象となったであろうことは想像に難くありません。その判断を原子力保安院は追認してくれるかも知れませんが、世論はそれを許さない、放射性物質の放出に踏み切った作業員を巨悪として追求し、世論に媚びる政府も喜んで作業員をスケープゴートにするでしょう。「一刻も早く排気しなければ爆発の恐れがあったのだ」と抗弁したところで、排気が遅れた場合の結果が推測の域を出ないとあらば、排気という「小さな悪」が「最大の悪」にされてしまうわけです。かくして現場作業員は判断を経営トップに委ね、経営トップは判断を政府に委ね、そうこうしている内に時間は流れ「より悪い事態」が発生してしまいましたとさ。やれやれ。


低濃度汚染水放出は国際的犯罪…西岡参院議長(読売新聞)

 西岡参院議長は26日、東京都内のホテルで講演し、東京電力福島第一原子力発電所から低濃度の放射性物質を含む汚染水を海に放出した問題について、「国際的な犯罪だ。必ず大きな禍根を残す。漁民にも知らされなかった。一体、どういう政治なんだと感じている」と述べ、政府や東電を厳しく批判した。

 さらに、東日本大震災への菅政権の対応に関し、「『想定外』という言葉で逃げることは許されない」としたうえで、緊急事態法制定や被災地への復興府の設置などを提案した。

 で、こんな「批判」もあったそうです。原発や東電を罵っておけばトンデモですら喝采を浴びるご時世ですが、この件はどうなんでしょうね。低濃度汚染水の放出を躊躇った結果として、余計に事態が悪化する可能性もあるはずで、それが後からウォールストリート・ジャーナル辺りに批判されることもあるように思います。「起こらなかった」ことについての評価は難しいですけれど、より悪い事態を避けるための判断については、もうちょっと尊重されても良さそうなものです。とりわけ今回の原発事故を深刻に思うのであればその分だけ、非常措置には理解を持つべきではないでしょうか。

 ちなみに報道によると「汚染度の低い水1万トンに含まれる放射能の量は、2号機の高濃度汚染水10リットル程度に含まれる量と同レベルにあたる」そうです(東電、汚染度低い水を海へ放出 数日かけ計1.1万トン―朝日新聞)。どう考えても10リットルでは済まない量の高濃度汚染水が漏れた後で「高濃度汚染水10リットル程度」の排水を指して「国際的な犯罪だ。必ず大きな禍根を残す~」と言うのは、状況を理解できていない人にだけ可能な発言でもあります(脱糞した後に屁をこいたとして、後者に噛みつくとしたら何かがおかしいでしょう?)。放射線の影響を気にするのであれば、高濃度汚染水の漏れを差し置いて低濃度汚染水の排出が問題になり得ることなどあり得ないのですから。批判するとしたら、より重大なものが先に来てしかるべきものと思われるのですが――現・参院議長にはその辺の区別が出来ていないようです。

 数値を一人歩きさせることは、印象操作の基本と言えます。上で見たように全体でどれだけの放射性物質が海に流れたかを大きく出さず、単に放出した低濃度汚染水の「1万トン」という数値だけを強調することで、事実を隠さずとも印象を違えることができてしまうのです。ただ全体像を見せずに一部だけを見せることで、大きいものを小さく見せたり、小さいものを大きく見せたり、これは常套手段でもありますし、むしろ「受け手(読者、視聴者、有権者……)」が意図して受け入れているものですらあります。

 「会計検査院指摘が国費310億円の無駄遣いを指摘」と聞いたらどう思いますか? では「国費の無駄遣いは全体の0.012%に止まる」と聞いたら? 印象は異なるかも知れませんが、両者が指し示す「事実」は同じです。あるいは「生活保護の不正受給額90億円超え」=「生活保護費の不正受給額は全体の0.4%未満」は? 両者は全く同じことを語っています。どちらも嘘ではありません。「給食費の滞納22億円に上る」=「給食費の回収率は99.5%」でもありますね。巷では「被災地に100億円を寄付」した富豪が人気のようですが、孫正義の資産規模を勘案すれば「総資産の1%強を寄付」ということがわかります。どちらの語り方も嘘になるわけではないのですが、印象は異なりますし、この「印象」に振り回されているのが世間であり世論なのです。

 「レモン○○個分のビタミンC」というのは常套句の一つですが、レモンは特にビタミンCを多く含む食品ではなかったりします。で、この実は大して多くない、あるいは大きくないものと比較して「○○倍」と煽るのもまた印象操作の基本です。ともあれ絶対的な数値が大きければ(例えば「1トン」とか)、その数値だけを単独でピックアップして、それが全体の中に占める比率は考えさせない、逆に絶対的な数値が小さければ、もっと小さいものと比較して「○○倍」と語る、かくして実態から目を背けさせる、あるいは目を背けることが出来るわけです。これこそ判断の誤りを招く元ですが、自らの世界観を守るために、あるいは世界観を広めるために好まれてきたものでもあります。

 先日は放射線の影響を「癌になる確率が30%から30.5%に上昇する程度」と説明する専門家に対して「0.5%上昇するなら1000人の内5人が癌になるということだ!」と噛みついている読者の投書が新聞に載っていました。もっとも現実世界に生きていく上で接する対象は放射線だけではないですから、研究者にとってはいざ知らず普通に生活する上では放射線の影響だけを単独で取りだして考えても意味がないことは言うまでもありません。もとより30%に対する0.5%と言うのは誤差の範囲、その他諸々の要因によって吸収されてしまうレベルです。むしろ野菜不足の食生活の方が癌になるリスクを高める、そういうレベルなのですから。確かに0.5%程度であっても好ましい変化ではありませんが、それに対する反応はリスクに応じたものでなければなりません。日本でも通り魔に刺されて死ぬ人は時々ニュースになりますけれど、だからといって常に防刃ベストを着込まねばならないとしたら、そのおかげで助かる命があるとはいえ、どう見ても過剰反応でしょう。そして過剰反応は、避けようとする対象以上の重荷ともなるわけです。とかく自らを脅かす脅威を大きく思い描きたがる人が目立つ、それが左右問わず広がりつつある昨今ですけれど、余計な重荷を背負う必要はないと私は常々思います。

 

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