ランニングマシンをひたすら走る中年男は,ビジネスの競争に勝ち残りたいのか,それとも若い女の子にモテたいのか… というありがちな「説明」は,真実を見逃しているかもしれない。走る中年男の頭に半ば無意識に去来した14歳の思い出が,彼をしてそうさせているのでは,という「仮説」がふと頭をよぎった。今日,都内某所,比較的少数の企業人が集まったセミナーでのことだ。
きっかけは,有名スポーツ用品メーカーのコミュニケーション戦略に関する議論。14~22歳がターゲットだというが,実際の購買層はジムで走っているオヤジたちではないかという質問に,講師の佐藤さんの当を得た答えは,50代でも気持ちは若者のままいる,というもの。そう,そうなのだ! なぜなら,誰しもかつて輝ける若者であったから。そして,その記憶は消えることがないからだ。
もちろん,あらためて聞かれれば,自分が50代であることを認め,最近体力が低下しただの,老後が心配だの,相応の答えをいうかもしれない。それはもちろん,嘘ではない。だが,きっかけさえあれば,彼(女)は自分の現在にふさわしい役割を忘れ,若き日の自分の気持ちに戻る。だから,雪の上でサッカーボールを追いかけている少年の映像に,一瞬自分を重ねることができる。
こういう見事なパスを,人と人の気持ちの間に通すことができる人をクリエイターと呼ぶ。誰の気持ちにもあるが,それをいわれるまで意識しないことが,彼(女)の頭に浮かぶ。他者の頭のなかで起きる感動や驚きを,それが実際起きる前に自分の頭のなかでシミュレーションできる。そしてもちろん,シミュレーションを現実の刺激に変換できる能力を持った人,それがクリエイターだ。
さらに面白かったのが,佐藤さんの語る,クリエイターがインサイトを得るための方法論だ。まず自分が実感できるか尋ねてみる。それができなければ,他のスタッフに訊く。だめなら,自分やスタッフが持っている人的ネットワークで探る。それでもだめなら調査… ただし参与観察型のそれを行うという。これは「共感」のエゴセントリック・ネットワークといえるかもしれない。
繰り返しになるが,他人が何に喜び,驚くかを自分の頭のなかでシミュレーションでき,そこで実際に喜びや驚きを創りだす。そのために,自己から周囲へ「共感性の」(もっといい表現がないものか…)ネットワークを張り巡らしている。何かこのへんに,優れたクリエイティブワークを「理論化する」ヒントが隠されているような気がする。
クリエイティブ/クリエイターの研究,いつまでも先延ばしにできないと強く思った夜。
きっかけは,有名スポーツ用品メーカーのコミュニケーション戦略に関する議論。14~22歳がターゲットだというが,実際の購買層はジムで走っているオヤジたちではないかという質問に,講師の佐藤さんの当を得た答えは,50代でも気持ちは若者のままいる,というもの。そう,そうなのだ! なぜなら,誰しもかつて輝ける若者であったから。そして,その記憶は消えることがないからだ。
もちろん,あらためて聞かれれば,自分が50代であることを認め,最近体力が低下しただの,老後が心配だの,相応の答えをいうかもしれない。それはもちろん,嘘ではない。だが,きっかけさえあれば,彼(女)は自分の現在にふさわしい役割を忘れ,若き日の自分の気持ちに戻る。だから,雪の上でサッカーボールを追いかけている少年の映像に,一瞬自分を重ねることができる。
こういう見事なパスを,人と人の気持ちの間に通すことができる人をクリエイターと呼ぶ。誰の気持ちにもあるが,それをいわれるまで意識しないことが,彼(女)の頭に浮かぶ。他者の頭のなかで起きる感動や驚きを,それが実際起きる前に自分の頭のなかでシミュレーションできる。そしてもちろん,シミュレーションを現実の刺激に変換できる能力を持った人,それがクリエイターだ。
さらに面白かったのが,佐藤さんの語る,クリエイターがインサイトを得るための方法論だ。まず自分が実感できるか尋ねてみる。それができなければ,他のスタッフに訊く。だめなら,自分やスタッフが持っている人的ネットワークで探る。それでもだめなら調査… ただし参与観察型のそれを行うという。これは「共感」のエゴセントリック・ネットワークといえるかもしれない。
繰り返しになるが,他人が何に喜び,驚くかを自分の頭のなかでシミュレーションでき,そこで実際に喜びや驚きを創りだす。そのために,自己から周囲へ「共感性の」(もっといい表現がないものか…)ネットワークを張り巡らしている。何かこのへんに,優れたクリエイティブワークを「理論化する」ヒントが隠されているような気がする。
クリエイティブ/クリエイターの研究,いつまでも先延ばしにできないと強く思った夜。