愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

羽曳野市 吉村家住宅

2014年12月16日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

 

鎌倉幕府を拓いた源頼朝の近くに仕えた武将「佐々木高綱」子孫の屋敷で、茅葺長屋門が家格を良く伝えている。

鎌倉時代初期にこの地に移り住み、天正年間(1573~1592) 以後は姓を「吉村」と改め、江戸時代中期には18ヶ村の大庄屋を務めたという名家です。

昭和12年(1937年)主屋が民家としては最初に国宝指定を受け、昭和25年(1950年)には重要文化財に再指定されました。

しかし年に2回?の一般公開を除いては内部に入る事は出来ず、主屋を目のあたりに見ることは出来ません。

背伸びをしてカメラをうんと上げてもこんなもん・・・・まるで主屋の形もわからず終い。

横手の生垣の間から少し見えた主屋の屋根。

主屋は、元和元年(1615)大阪夏の陣で焼け落ち、直後に再建されたとみられ、桃山時代の書院造りの建築様式を一部に留める代表的な上層農家の建物。

吉村家ホームページを見てみると茅葺大和棟、正面左手の落棟も茅葺き屋根に成っています。

なんと言っても表の茅葺長屋門を目にするだけでも充分ここに足を運んだ値打ちが有る。

因みにこの長屋門も重要文化財に指定されて居る。

撮影2013.12.9


堺市 中百舌鳥 高林家住宅

2014年12月15日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

すっかり住宅街の中に埋没してしまっている大規模庄屋屋敷の大和棟茅葺き民家。

堺市、仁徳陵からJR阪和線を挟んで南に500m、御廟山古墳南東一画に豪壮な白壁長屋門で囲まれた高林(たかばやし)家の屋敷が有る。

ここも当然街中、入口は何処もしっかり閉められ、外部の者を拒絶している。

致し方がないのでなんとか外部から主屋を挑めないものかと撮影ポイントを探してみる。

少し引いた場所からズームイン、なんとか茅葺き屋根の上方部分が確認出来るが物足りない。

道路を挟んで南側のアパート2階に上るとこの通り・・・両翼を本瓦葺きで永く延ばした下屋に茅葺大和棟を載せて居る。

後、改造は加えられてるとは言え天正年間(1573~1592年)の建築、大阪府では最も古い民家の一つです。

同じく堺市の中百舌鳥(なかもず)地区に残った名家の茅葺民家・・・・・この民家はいかにしても屋根の一部しか捉えられなくてここで一緒にUPしておきます。

 

この民家は、戦国武将「筒井順慶」を祖先に持つ名家で、門前にある楠の巨木は銘木として名高い。

白壁土塀の上から覗いた茅葺母屋は豪壮な入母屋造りに見える

しかし屋敷内の茅葺母屋はNETで、どこをどう探してみても出てこない。 

撮影2013.12.9


堺市 北野田の茅葺民家

2014年12月14日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

 

三棟並んで豪壮な大和棟の茅葺民家・・・・・・しかし三棟を一緒に見渡せる撮影ポイントは見つからなかった。

 ここは南海沿線北野田駅を東へ、西除川に架かる改新橋を渡って直ぐ、道路脇に軒を連ねるが・・・表正面からは三軒共にの長屋門で目隠しされ見ることは出来ない。

 

多分この三棟は同族の屋敷なのだろう??中央が本家で両側に分家を従えた様に成っているのでは・・・・

 

 少し調べた処によると、往古、近くに野田城があり、その城主「野田四郎正勝」の末裔の屋敷だと云う事でした。

 上の写真では向かって右側、この写真では左手に見える大きな母屋が三棟並んだ中央・・・・本瓦葺きの長屋門が歴史を感じさせてくれる。

 向かいのマンションに登って撮った中央の大和棟・・・・

 

 棟押えの瓦と高幣の瓦、下屋の瓦は全て本瓦葺き・・・棟頂の載せられた鬼瓦は城をも思わせる程立派で威厳が有る。

 これは向かって左側の大和棟・・・この家も立派な高幣を持って居ますが棟押えや下屋の瓦は棧瓦葺き。

 向かって右側の母屋を裏にある念照寺境内から望む。

600年以上もこの地に根を張り続けた重い歴史を感じさせるに充分過ぎる程の佇まいです。

撮影2014.12.9


伊賀市 諏訪の茅葺き民家

2014年12月13日 | 茅葺き屋根(同)三重県

伊賀上野からの帰り道、車の窓越しにちらっと見えた茅葺き屋根の家。

それこそ一昔前には何処にでも有る一般農家だったのだろう・・・小川の畔にこじんまり建っている。

妻側に棟を交差させるような形で新しい2階屋を建て、古い小さな茅葺き屋根を残している。

下屋は2階屋を新築する際に改造したのか?、アルミサッシュなどが入りまだまだ新しいが、茅葺き母屋は随分痛々しく、そろそろ何とかしなくては成らない時期が来ている。

撮影2014.1.23


伊賀市上野相生町 武家屋敷旧入交家(いりまじりけ)住宅

2014年12月12日 | 茅葺き屋根(同)三重県

伊賀上野城下、 町中に今も残る茅葺き屋根の武家屋敷。

上野城主「藤堂家」に召抱えられた家臣「入交勘平」の茅葺き屋根の武家屋敷を伊賀市が平成13年に公有化し、現在三重県指定有形文化財「入交家住宅」として一般開放されて居る。

伊賀上野城から南に約500m足らず、旧武家屋敷群の雰囲気が残る「上野相生町」にある。

何とも難解な「入交家」は長宗我部氏に仕えた土佐藩の家臣であったが、関ヶ原の合戦以後「藤堂高虎」に召抱えられ、伊賀上野に住み着いたという・・・。

<長屋門を入った中庭から・・>

後、宝永年間(1704~1708)に入交勘平が一家を興し、寛政年間(1789~1800)に拝領した武家屋敷が今に残るものだそうです。

この茅葺き母屋は、平成13年(2001)に公有化した当時、赤い鉄板で覆われて居たようですが、後、解体復元工事で元(現在)の姿にに戻された。

建物の説明は下部の説明板で・・・・・

古い歴史の上野城下にも、もうこの一軒を残して茅葺き屋根は全く見当たらない。

撮影2014.1.23


伊賀市 一之宮の茅葺き民家

2014年12月11日 | 茅葺き屋根(同)三重県

それと知り、気を付けていれば車窓から見えるかも知れない茅葺き民家。

名阪国道「伊賀一之宮」IC直ぐ近く、しかしこの大きい屋敷にもう人影のを見る事はない。

遠くから見ればまだまだ充分住めそうだし、周りに民家も少なからず有り、アクセスも悪くは無いのに・・・

いつからこのような抜け殻状態なのかは判らないものの・・・・・建物は人が住まないと傷みが加速度的に速くなる。

まだ今の内なら軽い修理で古民家レストランとしてでも再生出来そうだが・・・・

帰りがけ車に乗ってバックミラーに映った茅葺き屋根も充分に良いものだった・・・・。

撮影2014.1.23


宇陀市 室生古大野の茅葺き民家

2014年12月10日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

野焼きの薄煙に包まれ、かなり草臥れ果てた茅葺き民家。

旧室生村古大野・・・・現在古大野の地名は存在しないが、集落そのものはちゃんと存在している。

近鉄本線「室生口大野」辺りが旧室生村の中心地、そこから距離はそう離れてれないが、林道紛いの道を車で10分弱登り詰めた小さな山里。

そんな山里の集落道からも見えない山襞に隠れる様にこの茅葺き民家が建っている。

棟の傷みが酷いのかグリーンの防水シートを懸けて雨漏りを防いで居るのだろう・・・。

見たところまだこの母屋での生活は続いてそうだが・・・・このままで永くは続く訳が無い。

他にも新しい離家が建っていて困りはしないだろうから、この先すぐにでもちょっとヤバそう・・・

周りの景観と共に申し分ないのだが・・・・

撮影2014.1.23


宇陀市榛原赤埴 下志明の茅葺き民家

2014年12月09日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

この地域にはまだ数軒の茅葺民家が残っている。

ここは宇陀市の榛原赤埴地区、桜の名所「仏隆寺」から山裾尾根を挟んだ谷間に広がる棚田地域。

棚田を挟んだ農道から茅葺民家の屋敷を見渡すとこんな感じでなかなかの景観。

ここは集落一番奥入りの民家なので中々見付けにくい。

母屋の両脇に一棟づつ独立した離家があり、若い人が同居してるのだろうか??

たまたま、お邪魔した日は庭木の職人が入り、周りの手入れをしていた。

茅葺き屋根は棧瓦の片袖落棟の上に、両側切り妻母屋を載せて居る。

山間部に一軒隠れる様に建っているから残ったのだろうか??

そろそろ葺き替えの時期も近づいて居そうなのだがこの先どうなる事やら・・・・・。

撮影2014.1.23


奈良市 藺生町の茅葺き民家

2014年12月08日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

 

大和高原中央部、山蔭に隠れる様に屋敷を構える大和棟の茅葺民家。

名阪国道針インタ-より南に約2km、なだらかな丘陵の間に広がる農作地帯の一画・・・・少し離れた位置からズームアップするとこんな感じの山蔭。

正面側に近づくとこんな感じで、全く同じ場所を撮ったものとは思えないほど印象が違う。

やっぱり大和高原・・・昨日紹介の・・・・と同じく雪が残っている

建築自体はそれほど古くないのかも??落棟棧瓦屋根に煙出し館が見えない。

平入で正面を南西向に建っている。

 表には軽四トラックが停まっており、いかにも上級農家と云う佇まい。

腰板白壁土塀で屋敷を囲み、白壁土蔵や離れ家などなど、付属屋が4~5棟たっていかにも裕福な土地柄を感じる。

白壁土蔵越しの大和棟切妻が冬空に映える。

撮影2014.1.23


桜井市 小夫の茅葺き民家

2014年12月07日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

大和高原、山里集落に残された大きな屋敷の大和棟茅葺き民家。

この民家が残る小夫(おおぶ)集落は長谷寺から都祁に抜ける山懐に散在する集落の一つ。

山里集落は斜面に沿うように建ち並び、茅葺の覆懸け屋も数多く残り、懐かしいふるさとの景観を彷彿戸させてくれる。

集落内の小夫天満宮には奈良県最古最大のケヤキの巨木があり、その歴史と共に驚異を感じる。

そんな集落外れに高い石垣を積み、周りを腰板築地塀で囲んだ大きい屋敷がある。

正面側に廻ってみると表は特定郵便局、いかにも山里の名家では多い取り合わせ。

屋敷内から見た正面母屋の様子・・・・4~5日前に降った雪が未だ茅葺き屋根に少し残り、氷柱が垂れ下がり、いかにも山里風情を倍加させる。

母屋は両高幣の絵に描いたような大和棟、切り妻白壁破風に棧瓦屋根の落ち棟がピッタリ嵌る。

撮影ポイントを少し変えて撮影・・・・・田舎ではこんな名家でも屋敷まで入って、家人と気さくに話し掛けられる。

これは一体なんなのだろう。

近くで見掛けた茅葺き覆懸屋・・・・最早「もぬけの殻」のからのような佇まい。

こんな覆懸屋も見かけました・・・・・なぜか皆懐かしい。

撮影2014.1.23


吹田市 岸部の茅葺き民家

2014年12月06日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

吹田市街、JR東海道本線岸辺駅近くに屋敷を構える茅葺き民家。

正式には「岸部」、JR駅の名は「岸辺」古名は「吉志部」と書き、古墳時代の遺跡跡に古社「吉志部神社」が鎮座している。

付近は交通の便もよく、住宅密集地と成っているが、旧集落内に入り込むと、古くからの農村集落の様相がよく残り、茅葺き屋根に覆い懸けをした民家が散見できる。

そんな中この民家はすっかり改築されてるとは言え母屋だけは入り母屋造りの茅葺き屋根を残している。

田舎では開けっぴろげの屋敷は、固い守りの塀が取り囲み、玄関は部外者を一切拒絶するようにしっかり閉じられ、わざわざインターフォンで用向きを伝えても迷惑がられるだけの様な気がして足がすくむ。

どうも街中の民家を訪ねるのはどことなく気が引ける。

撮影2014.1.11


吹田市 佐井寺の茅葺き民家2

2014年12月05日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

引き続き佐井寺地域の茅葺き民家。

鎌倉時代に山岳仏教の地でもあった佐井寺地区は、付近でも特有の家並み持ち、今によくその面影を伝えて居る。

元は丘陵中腹に広大な屋敷を構える旧家で有ったたに違いない・・・・現在も豪壮な長屋門で正面からは中の建物が全く見えない。

サイドに廻っても塀や付属納屋などが邪魔をして内部の建物まではやっぱり見えない。

普段に正面の長屋門から出入りする事はないのだろう・・・脇に車の出入り口が有り、それと伝えてバシャさせてもらうが、それでも1ポイントだけ。

妻側を本瓦葺き下屋の上に豪壮な入り母屋造りの茅葺き母屋を載せている。

中でも裏側下屋の瓦屋根に小さな煙だし館を載せているのがもの珍しい。

街では殊更に茅葺き屋根を残すのは難しいだろうが、撮影するにも撮影ポイントが全く見つからず撮影を断念する民家もある。

佐井寺地域の後一軒は探し当てたけど・・・・どこから見ても家並に隠れて撮影は諦めた。

撮影2014.1.11


吹田市 佐井寺の茅葺き民家

2014年12月04日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

 

民家博物館の帰りがけ、ついでに寄ってみた茅葺き民家。

<Googleストートビュ-より>

千里丘陵の一角、往時は広大な丘陵斜面の集落で有ったろう吹田市佐井寺地域・・・・、現在、斜面上に古い集落を残し周りは悉く新興住宅地に囲まれすっかり都会化してしまっている。

他に越しの少し残った棚田の向こう斜面に大きな茅葺き屋根の民家が見える。

その上方や左手にも覆懸けをした茅葺き民家が見える・・・・僕が確認したところこの丘陵には三軒の茅葺き民家が残っていた。

こんな都会地に有ってそれは余りに稀有な事です。

大きな大和棟に似せた造りでまだまだ新しい昭和期の建築ではないだろうか??

都会地でそれなりのステータス誇示している様に見える。

撮影2014.1.11


日本民家博物館 旧大井家住宅

2014年12月03日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

民家博物館内、最大の茅葺き建築物の合掌造り民家、飛騨白河の旧大井家住宅。

この建物を現地よりこの地に移築するのは何しろ規模が大きく大変だったろう・・・・

 旧大井家住宅は飛騨白川郷、大郷(だいごう)地区の大牧(おおまき)集落にあったが、白川郷を流れる庄川( しょうかわ )に三つのダムを建設することになり、昭和31年(1956)大牧集落は鳩ヶ谷ダムの湖底に水没、この地に移築された。

この民家は江戸後期の1800年頃の建築、平入の三階建て、妻側に便所、水屋が建てられ壁は土壁を一切用いず、全て板壁造りですが、横板を柱の間に落し込む古い造りに成っています。

 飛騨白川郷は自然環境の過酷な山間僻地にあり、豪雪から母屋を守るため急傾斜の屋根を持ち、妻側から見る形が手を合わせ合掌する形に似ていることから合掌造りと呼ばれて居る。

大家族制度に依る何十人もの家族が住まい、三階以上の上部は養蚕のための作業場と成っていて、どうしても大規模に成らざるを得なかった。

温暖な地域で育った僕たちには想像も絶する様な暮らしが有ったんだろうととつくづく思う・・・

見るだけには良いが、現実問題、住むと成ったらとてもとても・・・という感じ。

現在国の重要有形民俗文化財に指定されて居ます。

撮影2014.1.11

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明治期から昭和中期まで白川村の「大家族」制は民俗学・社会学の人きな研究テーマであった。

「大家族」では時には三十人から四十人がひとつの合掌造りの建物に住んでいた。

大きな合掌造りの建物に四十人もの「家族」が忙しく暮らしていたのだから、さぞや賑やかなものだったにちがい。

「大家族」制ではこの四十人のうち、夫婦で住むことができるのは家長と長男のみで、残りの家族はすべて、次男以下の男性が他家の未婚の女性のもとに通う「妻どい」形式の結婚形態であったことが特徴とされている。

「妻どい」夫婦の子供は母親の家で育てられ、戸籍上は「私生児」となった。「大家族」制が見られたのは白川村の南部の中切地区と北部の山家地区の一部のみで、世界遺産の荻町がある大郷地区では見られなかったという。

「大家族」制は大正時代の中ごろまで続いたとされている。山に川まれて土地が狭いため、米も十分つくることができず、焼畑に頼って生活をしていたこと、養蚕を続けていくために働き手を家に確保しておく必要があったことが「大家族」が成立した要因であるとも言われている。


奈良市北椿尾町 春日神社の不動石仏

2014年12月02日 | 石仏:奈良

 

前回の地福寺不動明王石仏と殆ど同じ像容の不動石仏です。

 

地福寺から在所道を北へ約300m、斜面に境内を拓いた春日神社が鎮座する。

 境内への登り石段前に建つ朱鳥居、御手洗館、それと並んで簡素な覆い屋が建ち、中にイタズラ小僧の不動石仏が立っている。

 

高さ約1m足らず大きさも地福寺のものと殆ど同じ、頭にドロバチの巣を懸けられ迷惑そうです。

 光背、向かって左には室町後期の天文五年(1536)、右には奉逆修宗祐の銘があり、地福寺のものと同じ造立者で有る事が判る。

しかし何ゆえ近くにありながら、神社と寺に分かれて同じ造立者の不動石仏が有るのだろう。

勿論明治以前には寺も神社も同じ性格を有していた事もあるのだが・・・・。 

撮影2012.7.8