民家博物館内、最大の茅葺き建築物の合掌造り民家、飛騨白河の旧大井家住宅。
この建物を現地よりこの地に移築するのは何しろ規模が大きく大変だったろう・・・・
旧大井家住宅は飛騨白川郷、大郷(だいごう)地区の大牧(おおまき)集落にあったが、白川郷を流れる庄川( しょうかわ )に三つのダムを建設することになり、昭和31年(1956)大牧集落は鳩ヶ谷ダムの湖底に水没、この地に移築された。
この民家は江戸後期の1800年頃の建築、平入の三階建て、妻側に便所、水屋が建てられ壁は土壁を一切用いず、全て板壁造りですが、横板を柱の間に落し込む古い造りに成っています。
飛騨白川郷は自然環境の過酷な山間僻地にあり、豪雪から母屋を守るため急傾斜の屋根を持ち、妻側から見る形が手を合わせ合掌する形に似ていることから合掌造りと呼ばれて居る。
大家族制度に依る何十人もの家族が住まい、三階以上の上部は養蚕のための作業場と成っていて、どうしても大規模に成らざるを得なかった。
温暖な地域で育った僕たちには想像も絶する様な暮らしが有ったんだろうととつくづく思う・・・
見るだけには良いが、現実問題、住むと成ったらとてもとても・・・という感じ。
現在国の重要有形民俗文化財に指定されて居ます。
撮影2014.1.11
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明治期から昭和中期まで白川村の「大家族」制は民俗学・社会学の人きな研究テーマであった。
「大家族」では時には三十人から四十人がひとつの合掌造りの建物に住んでいた。
大きな合掌造りの建物に四十人もの「家族」が忙しく暮らしていたのだから、さぞや賑やかなものだったにちがい。
「大家族」制ではこの四十人のうち、夫婦で住むことができるのは家長と長男のみで、残りの家族はすべて、次男以下の男性が他家の未婚の女性のもとに通う「妻どい」形式の結婚形態であったことが特徴とされている。
「妻どい」夫婦の子供は母親の家で育てられ、戸籍上は「私生児」となった。「大家族」制が見られたのは白川村の南部の中切地区と北部の山家地区の一部のみで、世界遺産の荻町がある大郷地区では見られなかったという。
「大家族」制は大正時代の中ごろまで続いたとされている。山に川まれて土地が狭いため、米も十分つくることができず、焼畑に頼って生活をしていたこと、養蚕を続けていくために働き手を家に確保しておく必要があったことが「大家族」が成立した要因であるとも言われている。