愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

山添村 布目湖付近の石仏 -6(首切り地蔵)

2006年03月14日 | 石仏:奈良

布目湖の西岸に桐山と言う集落が有る。

この村の鎮守戸隠神社手前の道路を山側に向かって少し走ると大きく左カーブする。

左手の道路から1段下がったところに大きな岩塊があり十体の石仏が彫られている。



四角に彫りくぼめた中に半肉彫りの二尊石仏が一番大きく、像高約80cm・永禄九年(一五六六)の造立、阿弥陀と地蔵が並んで立っている。

近所のおばあちゃんに依ると、首切り地蔵というらしい。

昔この石仏の前に処刑場があったらしく、何人もの罪人が首を切られた名残で、そのように呼んで居ると言う。

他の石仏も双体仏がほとんどだが、風化もすすみ苔むしているので像容も判りにくい。

普通に言うと多尊磨崖石仏と言うのであろうか??

山添村 布目湖付近の石仏 -5

2006年03月13日 | 石仏:奈良
的野の旧街道を南進して県道に交わる橋のたもとに大きな岩があって小さな不動明王が刻まれている。



布目川の流れや、的野集落の家並に溶け合って、ぼくの大好きな景色を醸し出している石仏です。

岩の上の羊歯や残り雪も巧妙にこの石仏を引立たせていた。

像高約30cm、鎌倉末期の作。



この石仏の東向こうに小さな森があって八幡宮が鎮座している。

境内続きの常照院跡にはこの地方最古の阿弥陀笠石仏が祀られている。



花崗岩の自然石に約1mの阿弥陀立像を高肉彫りにして、銘には建長五年十月一日造立とあり、風化が進んでおり目鼻立ちも確かには見えにくい。

付近の村人からは石薬師と呼ばれ信仰が篤いらしく真新しいお供え物があげられていた。

東大寺二月堂、お水取り(おたいまつ)-1

2006年03月12日 | 神事:行事:寺社: 仏像
関西に春を呼ぶ行事として有名な東大寺二月堂がお水取りが今まさに進行中です。


大仏殿裏から二月堂を見る

先週の金曜日(3/10)の夕方、仕事もそこそこにして二月堂まで出かけてきました。 春をよぶ小雨の中、大仏殿の裏から二月堂に通じる裏参道ははにすでに人並みが続いていた。


二月堂裏参道から



 裏参道から境内に入る結界には勧請縄が張られていて、う~~ん、さもありなんと1人で、納得してしまいました。


 境内はすでに人ごみで人垣を掻き分けなければ前にはすすめない状態でした。 食堂の庇にはこれから出番を迎えるお松明がつりさげられています。


水がくみ上げられる若狭井


鵜の宮神社

 お水取りは、修二会といい、二月堂の本尊である十一面観音の前で全ての罪や過ちを懺悔することにある。



これは11人の練行衆(参篭、おこもりする修行僧)が人々に代わり本尊に個人だけでなく国家や社会が犯した全ての罪や過ちをざんげし罪障の消滅とともに仏の加護を願う物であるという。


 


おたいまつは、お水取りのハイライトとしてすっかり定着しているようにおもわれているが、これそのものは 練行衆が二月堂に登堂する道明かりに過ぎないと言う。


昼間の二月堂から・・大仏殿を見る

 しかし、この火は見る人にとって心を打つもので、今のようにショウ的な演出がされていったものらしい。
 ゆうがたの、7時きっかりに境内の明かりは消灯され、1本目の松明が登廊の下の方から、お堂の上の方へと上がっていく。 上がった途端その松明が色々な技巧をこらして振り回され、いっぱいの観衆の上に滝のように火の粉が流れ落ち、その火のさかんな動きに歓声が上がる。


 
鐘の音と、ダンダンと何かを硬いもので踏みつけるような音が絶え間なく聞こえてくる。 実際の本行は二月堂の堂内で行われるので境内からは見るすべもなく、又特別に入堂するのも かなり難しそうです。


二月どうへ

 この、お水取りの行は今年で1255回目を迎えるという。 とてつもない長い時間を、かけて毎年うけつがれてきているこの密教的な行事に誰もが神秘的な魅力をおぼえる。

詳しいことは、ここからみられます。

山添村 布目湖付近の石仏(的野地蔵磨崖石仏) -4

2006年03月11日 | 石仏:奈良
布目湖から布目川沿いに南進するとやがて的野の集落の出る。



この道筋の右手道路わきに突き出した岩があり、この岩に像高90cmの地蔵石仏が刻まれています。

正安三年の銘がある、鎌倉後期磨崖石仏で写実的な鎌倉期の特徴が見て取れる。

ちょっと、誰かに似てませんか??



この地蔵の、川向こうには阿弥陀磨崖石仏が居られる。



布目川の清流越の岩盤に、舟形光背を彫りくぼめたやや細め阿弥陀立像です。



川向こうに渡る方法がないので真近で見るこちは出来ない。



もともと川越に拝んでいたのか川のこちら側に拝所らしき物がある。

山添村 布目湖付近の石仏 -3(岩屋枡形石)

2006年03月09日 | 石仏:奈良
牛ヶ峰の墓地横に車を止めて目の前の参道を登ること約20分、結構身体に良い汗をかく。

高低差は100m、たった600mの距離だというのに。

登り詰めると小さなお堂があって「岩屋寺」として近世の頃まで栄えていたという。

もちろんこんな山の中道路とてなく無住になっているようだがまだ朽ち果てては居ない。



お堂の奥まったところに目を見張るほど巨大な自然石が何個かの支石の上に乗りかかっている。

この大石は高さ6m幅3m、奥行き6mばかしあり、岩屋となっているが、この大岩盤には弘法大師が彫ったとされる丈六の金剛界大日如来が居られます。





ただし、石仏専門家によると、室町初期の作風だということで残念ながら弘法大師の生きていた時代のものではありません。



この大岩の下の岩屋には護摩壇が設けられていて、その奥に不動明王、弘法大師、五輪等などが並んでいた。



大岩から少し登ると「岩屋」を大きく凌駕する巨大な立岩が屹立している。

それが「枡形岩」と呼ばれる巨岩で、高さ16m、横幅10m、縦幅7m、正面にはお堂があって弘法大師像が祀られている。



この二体の巨岩は元々1つの岩であったと考えられ、両石の剥離面の状態から、元々「枡形岩」の前面に「岩屋」の主石部分がくっついていたものだと思われています。

それがいつの頃か2つに割れ、「枡形岩」前面の岩石が斜面下に転がり落ちて、斜面下の別の岩石にのっかかったと考えられているようです。

この大岩盤には写真のような枡形の蓋のようなものがあって、言い伝えとして・・・・。

弘法大師は大日如来を刻み終わると、上方に屹立していた立岩へ行き、その岩の表面上部に枡形の刳り抜きを作り、その刳り抜きの中にノミとツチを収めたのだといいます。



しかし枡形は本来仏像を安置するための石の厨子だとかんがえられ、総代が代々保管している木製の御正躰(鏡状の円板に仏像を刻印した中世以来の仏像型式)こそが、もともとこの枡の中におられた仏像ではないかと考えられています。

学問的には弘法大師の時代とは合致しないが、後世の弘法大師信仰の強さが示されたものではないでしょうか。

山添村 布目湖付近の石仏 -2

2006年03月08日 | 石仏:奈良
布目大橋をわたってすぐの信号を直進すると右手にさほど大きくない岩の塊が道路わきにぽつんと置かれている様にあって、阿弥陀仏が刻まれています。



桐山阿弥陀磨崖石仏で、像高70 Cm、文和四年(1355)南北朝期の作、街道の通行安全を祈った物だといれています。

しかし像容は良く判らないほど風化がが進んでおり痛々しい。



ここから、元の信号まで戻ってダム湖の西岸沿いの道路を北進するとす右手、ダム湖岸に小さな広場があって、そこにダム建設で移住を余儀なくされた烏ヶ淵阿弥陀地蔵二尊磨崖仏が、小さな池の中にたたずんでいる。(もちろん小さな人口池)



布目ダムの建設による水没から逃れるため巨岩を切断、移築してこの場所に安置したものだと言う。

像高約90cm、寛政の年号が入っています。



この先をそのまま直進するとトンネルを抜けダム湖にかかる橋を渡り塚腰から、牛ヶ峰へと向かう。

牛ヶ峰の墓地もダム湖の水没から逃れてここに丸ごと引っ越してきたとか??

墓地の石垣に埋め込まれている六体地蔵磨崖石仏はこの地域でよく見かける姿です。



墓地内の傍らにも小さな地蔵磨崖石仏、その隣にあまり見かけたことのない姿の石仏を刻んだ板碑?があった。

いよいよ、ここから牛ヶ峯岩屋桝型岩へと登る。

山添村 布目湖付近の石仏

2006年03月07日 | 石仏:奈良

この前の休み、春の暖かさに誘われて小さな磨崖仏の多い奈良布目湖の辺りをぶらぶらして来た。

布目湖は奈良県山辺郡山添村に有るダム湖で、平成四年(1991年)竣工。

もともとこの付近には多くの小さな磨崖仏が多かったが、ダム湖が出来た際、多くの石仏が元の場所を離れて移転を余儀なくされた。



この日は、山添ふるさとセンターから布目湖に向けて車で出発。

県道奈良~名張線を約10分程は走ると大塩という集落を通る、この集落を過ぎてすぐ左手ガードレールの切れ目の道路を一段下がったところに居られるのが阿弥陀二尊磨崖石仏です。

地蔵立像と阿弥陀立像を並べているが、地蔵の方はは後補のようで時代的にも江戸初期のものと考えられる。

左の阿弥陀像は室町期のもので、当初この阿弥陀だけが彫られていたあとに地蔵を並立させたもので、阿弥陀の右光背部分がいかにも不自然です。

阿弥陀の像高約60cm、地蔵約70cm、いかにも野の仏といった趣です。

交通量は余り多くないが、余りにも道路に接近していてそのうち排気ガスでどす黒く汚れてしまわないかと少し心配です。



次に訪れたのは 峰寺の六所神社の石仏さん。

六所神社のある峰寺は峠から見る大和屋根の美しい集落で 、その集落の氏神である六所神社は岩盤の上に本殿が建てられている。



境内奥、小さな岩肌に小さな可愛い多聞天磨崖仏 (室町期)がある。



本殿左側の岩盤には像高72cmの不動明王磨崖石仏で建武五年の銘が有るという。





傍らには 天文元年(1533)の地蔵菩薩も みられる。



境外右手の石垣に小さな地蔵菩薩が刻まれていた。



まさか石垣に石仏を刻んだとも思われず、どこかの石塔などを利用して石垣にしたのだろうか???。


奈良市 南田原阿弥陀磨崖石仏(切りつけ地蔵)

2006年03月06日 | 石仏:奈良

奈良市の山里、田原から天理方面に抜ける大和高原の南田原南はずれに、伊行恒の作になる磨崖石仏がある。

街道の左手に大きなの藤の蔓の絡まった岩盤に等身大の石仏が二体と、小さな六体地蔵が刻まれている。

左手の阿弥陀如来には、東大寺の宗詮が、伊派の名工行恒に作らせたと言う銘がある。

鎌倉末期の元徳三年の造立、像高1.8m。

伊行恒の石像は木彫に近い精巧な顔立ちが石の硬さを感じさせない。

右手には像高1.7mの弥勒菩薩、像の右肩辺りから大きなひび割れが痛々しい。

阿弥陀如来の右下には像高約30cmの六体地蔵が並んでいるが苔魅していて良く分からない。


山添長寿岩

2006年03月04日 | 風物:陵墓
名阪国道の山添インターで、下道に下りると、すぐに山添ふるさとセンターがみえる。

下記は山添村のホームページより転載させていただきます。

 今から7年ほど前の1996 年、ふるさとセンター造成工事を行っていたところ、地中から巨大な石のボールと、それと同じぐらいの大きさの台座らしき岩が現れた。

しかしその当時、誰もがその重要性に気づくことなく、台座のほうは爆破してしまった。しかし、ボール爆破にはあまりにも費用がかかるため中止し、村のシンボルとしてふるさとセンターの前庭に鎮座させることとなった。  

この岩は、大きさもさることながら形が見事な球体をしている。直径7m、推定重量約600tはくだらない。

注目すべき点、それは赤道、子午線とおぼしき謎の「十字ベルト」があることである。ちょうど巨大石球をぐるりと取り囲むようにラインが二本描かれ、しかも両者は互いに垂直に交わっており、巨大石球の表面を4等分している。



この巨大石球は花崗岩でできており、ラインは石英や長石を成分としたものと考えられ、他の混入物もあってか日に照らされると黄金色にも見える。



  もし巨大石球が惑星を表しているなら、まさに2本のラインは赤道と子午線そのもの。緯度と経度の基準線とも言うべき重要なラインである。  もう一つ不思議なことに、建物側の側面に3重の円が描かれていることが、ペトログラフの研究者によって確認されている。



しかし、こんなに大きく重いものを地中から掘り出して、地上まで持ち上げたのだろうか??

もしくは、周り土を全部掘り下げたのだろうか??

そういう風にはみえなかったけど・・・・。

ラインのように見える石英は、僕には自然そのもののように見えたのだが・・・。

場所はここ

天理市 福住阿弥陀笠石仏

2006年03月03日 | 石仏:奈良

この石仏さんも野の仏として、野趣豊かな石仏さんです。

以前は傍を流れる小川の土手に居られたらしいのですが、コンクリートで護岸工事がされた際に今の場所に移設されたようです。



陸に上がった河童のようにちょっと風情を損なっています。

名阪国道の福住インターで降りて北方向へ車ですぐ、右手のガードレール越しにこの石仏が見えてきます。



像高、約1m自然石を笠にいただいて鎌倉後期応長元年(1331)の像立。



場所はここです。


天理市 別所の地蔵石龕(がん)仏

2006年03月02日 | 石仏:奈良

天理市福住別所の、下の坊寺の奥にこの地区の小さな埋め墓がある。

そこの、迎え地蔵としてこの鎌倉中期の大柄な地蔵石龕(がん)仏が居られる。



このまえの小道は昔、帯解に抜ける街道筋だったようだが、今はこの地蔵の先に道は続いていない。

まるで、長らく人が来た様子もないほどに 荒れていて、隣の捨墓が余計に薄気味悪さを増幅させる。



石仏は荒切石で石龕を作り、その中に像高1.46m、大柄な地蔵立像を安置している。

光背面には『建長五年十一月七日造立之大中巨勢国弘也』と刻まれている。

地蔵の横には不動石仏が居られて、妙な組み合わせだなと思った。

又誰がいたずらをしたのか真っ黒な眉毛がマジックペンで描かれていてちょっと興ざめ、こまった悪戯です。

地図はここから。

明日香栢森(かやのもり)の女綱

2006年03月01日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神
栢森の女綱は、稲淵の男綱から飛鳥川沿いに2キロ程遡ると道路の左手に飛鳥川をまたいでいる勧請縄がみえる。




綱掛神事は、栢森と稲渕両大字に伝わる神事で、毎年正月11日に行われる。カンジョ掛神事ともいう。子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに、悪疫などこの道と川を通って侵入するものを押し止め、住民を守護するための神事といわれている。



 

栢森大字の神事の特長は、全体を仏式で行うことである。福石(陰石ともいう)と呼ばれる石の上に祭壇を設け、僧侶の法要の後、飛鳥川の上に陰物を形どった「女綱」を掛け渡す。 一方、飛鳥川下流の稲渕大字の神事は神式で行うことが特徴で、「男綱」を飛鳥川に掛け渡しをする。(女綱の説明板による)



あまり、下から覗くのは良くないかなと思いつつも、下からUPで捕らえてみました。

 真中に半球形の直径五〇~六〇センチメートルもあろうかと思われる、女性のシンボルを表したもので、下流の男性のそれに相対しています。
女性の形のものの内部には、夏みかん一個を竹でさしいれ、それを柱連縄で巻いています。
網かけ場に一メートル大の陰石があり、これにも柱連縄が張られています。



中央へ女性のシンボル、その両側へ、二メートルほど離して榊と御幣をつり、さらに2.5メートルの縄を垂らしています。
しかし、僕の見たときには片方の縄が無くなっていた。

二つの勧請縄を見て、ふとふしぎに思ったことがある。
なぜ、女性のものが上流にあって、男性の物が下流に有るのかが良くわからない。
それにはそれなりの理由が有るとは思うのだけれども???
女性上位ということではあるまいに・・・・。

女綱の綱架け神事の詳しいことはこちらから。