牛ヶ峰の墓地横に車を止めて目の前の参道を登ること約20分、結構身体に良い汗をかく。
高低差は100m、たった600mの距離だというのに。
登り詰めると小さなお堂があって「岩屋寺」として近世の頃まで栄えていたという。
もちろんこんな山の中道路とてなく無住になっているようだがまだ朽ち果てては居ない。
お堂の奥まったところに目を見張るほど巨大な自然石が何個かの支石の上に乗りかかっている。
この大石は高さ6m幅3m、奥行き6mばかしあり、岩屋となっているが、この大岩盤には弘法大師が彫ったとされる丈六の金剛界大日如来が居られます。
ただし、石仏専門家によると、室町初期の作風だということで残念ながら弘法大師の生きていた時代のものではありません。
この大岩の下の岩屋には護摩壇が設けられていて、その奥に不動明王、弘法大師、五輪等などが並んでいた。
大岩から少し登ると「岩屋」を大きく凌駕する巨大な立岩が屹立している。
それが「枡形岩」と呼ばれる巨岩で、高さ16m、横幅10m、縦幅7m、正面にはお堂があって弘法大師像が祀られている。
この二体の巨岩は元々1つの岩であったと考えられ、両石の剥離面の状態から、元々「枡形岩」の前面に「岩屋」の主石部分がくっついていたものだと思われています。
それがいつの頃か2つに割れ、「枡形岩」前面の岩石が斜面下に転がり落ちて、斜面下の別の岩石にのっかかったと考えられているようです。
この大岩盤には写真のような枡形の蓋のようなものがあって、言い伝えとして・・・・。
弘法大師は大日如来を刻み終わると、上方に屹立していた立岩へ行き、その岩の表面上部に枡形の刳り抜きを作り、その刳り抜きの中にノミとツチを収めたのだといいます。
しかし枡形は本来仏像を安置するための石の厨子だとかんがえられ、総代が代々保管している木製の御正躰(鏡状の円板に仏像を刻印した中世以来の仏像型式)こそが、もともとこの枡の中におられた仏像ではないかと考えられています。
学問的には弘法大師の時代とは合致しないが、後世の弘法大師信仰の強さが示されたものではないでしょうか。