結界石と呼ばれる太子廟を取り巻く様に立ち尽くす板碑列
太子町「叡福寺」は言わずと知れた聖徳太子ゆかりの地・・・・
聖徳太子一族(生母穴穂部間人皇后、太子夫人膳部大郎女と本人)が眠る三骨一廟の太子廟があることで広く知られて居る。
聖徳太子磯長廟として祀り聖徳太子らの墓所とされる叡福寺北古墳は、宮内庁により皇族の陵墓(磯長墓)に指定され・・・
江戸時代までは参拝のために石室内に入れたらしいのですが、明治に入り入場が規制され、明治12年(1889年)の修復調査が実施された際に、横穴入口をコンクリートで埋められてしまったようです。
しかし墳丘の周りを埋め尽くすように二列の結界石と呼ばれる板碑が並び建っている。
板碑は何れも観音の種子を刻み、頂部山形板碑ですが内部二列目と一列目とでは造立期が明らかに異なるよです。
全体で490本あると言われていますが圧巻です。
一方、叡福寺の墓地に立つ二体の地蔵石仏は
共に等身大で頭上に蓮華紋の刻まれた舟形光背を背負い蓮座の上に立つ。
向かって左側の地蔵石仏も・・・
向かって左側に地蔵石仏も、共に室町末期の弘地(1555~)年号を持つ。
「永福寺」は中世に於いても衰退することなく、特別な「太子信仰」を持ち続けて居たのだろうか???
撮影2012.10.10