もう今にも崩れ落ちそうな軟質の砂岩崖に何体と無く大きく刻まれた磨崖石仏・・・・、どうも畿内の硬質花崗岩の磨崖仏を見慣れてる僕の目には危うさこの上なく、まるで粘土で作った塑像の様に見える。
ちょうど深く彫り沈めた崖庇が大きく石仏中央部で影を作り出し、なんとも手に負えない撮影状況となりこのようなざまです。
蒲生の大楠から旧隼人町の隼人塚へ向かって県道42号線を西進途中、九州自動車道が県道42号線を跨ぐ直前の左手に天福寺磨崖仏への案内看板が見える。
道なりに暫く進むと何の表示も無いがそれと解る崖と、その前には僕にはもの珍しい屋根つきの墓場が目に飛び込む。
なんとも素敵な景観です、田圃、畦道の奥に見慣れない墓場、それを見下ろすかの様な山肌の崖一面の磨崖仏・・・・、九州にはこんな景色が有るんだと。
ここもやっぱり明治の廃仏希釈ですっかり跡形も無く潰された天福寺跡、墓地前に広がる田圃が境内だったとか??磨崖仏は南面する脆い砂岩の崖、東西に約100m弱連なっている。
向かって右側の東部石仏群・・、高さ約3m、間口は約10m以上も有ろうか??、風化激しく下部は殆ど原型をとどめず胸部より上部でそれとなく判断できる状態。
向かって左端には多分三体もしくは四体、しかし現認できるのは何とか二体、あとは砂となり泥となり崩れ果てたのだろう・・かすかな痕跡が残るような??
中央には五体の如来形坐像、像高約1m強の等身大、中尊は風化剥離が一段と激しくもう何が何やら状態・・下部は砂岩の層が波打ち、触るとぽろぽろ崩れてしまいそうです。
しかしどの像も大きな円形頭光背を背負い、大きく張った肩幅を持つ素晴らしい磨崖石仏ですが・・・。
その傍ら左手にはこんな三体?中尊は立像だったのだろうか??砂岩に混じる礫粒が今にも落っこちて来そうです。
この傍ら、直角の曲がった壁面はこんな状態、像はすっかり基部から剥離してしまっています。
たぶん如来型坐像が刻まれていたのでしょうが。
天福年間(1233:鎌倉前期)といっても元年しかありませんが、鍋倉殿と称された加治木三郎為平によって岩壁に彫られたと言う事だけは解っていますが、加治木三郎為平という人物が何者なのかは全く調べられません。
こんな墓石か板碑と思われるようなものや・・・
なんとなく原型を留めているような五輪塔や宝篋印塔などなどと山盛り有りますが、風化侵食の激しさとともに廃仏希釈の激しさにも抗し切れなかったようです。
哀れな姿を晒しているようですが敢えて下手な保存を考えず有るがまま、この姿が良い。
撮影2011.12.19
まるで異国の様ですね。
風化するがままに任せてあるのが良いな~
近年何処へ行っても保存のやり過ぎ感がありますので・・・
屋根付の墓石と言うのも珍しいしね。
薩摩の墓地が何処でもこれだと言うわけではなく今回の旅でもこの辺りで2~3見られただけでした。
正月は少しゆっくりしていますか??