月曜日は曇天で穏やかになりそうである。頭も痛いので明日に備えた方がよさそうだ。来週は同じような感じで進み、週末にかけて晴れて寒くなる。雪が降りそうにないのが喜ばしい。
ヴィーンからの生放送を聴いた。キリル・ペトレンコが同地のフィルハーモニカーを指揮するのは三種類目のプログラムで本番四日目だった。無観客で催されて、もう一日月曜日に観客を入れて繰り返される。事実上の本番前の稽古のようでもあり、無人の楽友協会黄金のホールが鳴っていた。
流石にこれまでの二回の協調作業の経験が活かされていて、普段よりは準備が出来ていたようで、ある程度この組み合わせの出来が定まってきていた。シュニトケのヴィオラ協奏曲は夏のオープニングツアーでも裏プログラムとしてタベア・ツィムマーマンを迎えて演奏される。ロシアにサイトから楽譜を下ろして見たが、ベルリンのフィルハーモニカーならば沢山に出来ることがあった。可也エキサイティングなプログラム前半になると思う。この曲をクーレンがヴィオラに持ち替えた録音を持っているので、全く異なる曲になっていて驚いた。やはり頻繁に演奏されて定着していない曲ではこれだけの差が出る。
同じように土曜日の夜はベルリンのフィルハーモニーからの時差生中継を聴いた。そちらでは最近流行りのヴァインベルクのトラムペット協奏曲がハーデンべルガーのソロでネルソンズ指揮で演奏された。
ネルソンズは、新しい曲や作曲家を紹介することがあって喜ばしいのだが、特にここ暫くの演奏が悪くなっている。放送でも紹介されるように楽団の演奏者の音楽を活かして云々は結構なことなのだけれども、音楽的にとても曖昧になって来ている。そうした芸術性は以前からあまり変わらないのだが、音楽的にとてももっちゃりになってしまっている。先週流れたライプチッヒでのデビューコンサート中継録音との差は大きい。当時33歳ぐらいだったようで、ムーティが日本でデビューしたぐらいの年齢である。
どうも「春の祭典」において楽曲のシステムのバランスに注目している様なのだけれど、その鳴りに注意が行って、リズム的な骨子などがぼやけて、それでも有機的な音楽の提示となっていないところが痛い。ザルツブルクで指揮したマーラーなども同じ傾向にあった。
ヴィーンでの後半のスクリャビンの「神聖な詩」は、残響の多い会場で鳴っていた。苦になったのはフィルハーモニカーの発声の不明瞭さで、中声部などは全く発音していなかった。勿論下に隠れるような音響となる所でもあるのだが、奈落の下ではそれで済むような合わせ方も板の上では要求されるものが異なる。恐らく演奏機会も殆どなかった楽曲での新たな仕込みは楽団にとってもお勉強になるだろう。ペトレンコはどこの楽団を振ってもそうした教育的な視野に立ってプログラムなどの選択をしているからである。
ヴィーナーの特徴は致し方がないのだが、それはそれなりに指揮者との関係や演奏会への合わせ方の手前が分かって来ていて、今後驚くような発展も期待できない半面、ある程度の協調作業は計算できるようになったのではなかろうか。
個人的な興味は、五年後十年後にヴィーナーフィルハーモニカーとザルツブルクでオペラなどを振ることがあるかどうかである。先ずはバイロイト復帰があってとなるだろうが、ベルリンでの仕事が安定してくるようになれば、復活祭の一演目だけではもったいないとなる時が来そうであるからだ。
参照:
ペトレンコ指揮に音をあげる 2016-04-04 | 音
客演のための課題曲 2018-12-10 | 音
ヴィーンからの生放送を聴いた。キリル・ペトレンコが同地のフィルハーモニカーを指揮するのは三種類目のプログラムで本番四日目だった。無観客で催されて、もう一日月曜日に観客を入れて繰り返される。事実上の本番前の稽古のようでもあり、無人の楽友協会黄金のホールが鳴っていた。
流石にこれまでの二回の協調作業の経験が活かされていて、普段よりは準備が出来ていたようで、ある程度この組み合わせの出来が定まってきていた。シュニトケのヴィオラ協奏曲は夏のオープニングツアーでも裏プログラムとしてタベア・ツィムマーマンを迎えて演奏される。ロシアにサイトから楽譜を下ろして見たが、ベルリンのフィルハーモニカーならば沢山に出来ることがあった。可也エキサイティングなプログラム前半になると思う。この曲をクーレンがヴィオラに持ち替えた録音を持っているので、全く異なる曲になっていて驚いた。やはり頻繁に演奏されて定着していない曲ではこれだけの差が出る。
同じように土曜日の夜はベルリンのフィルハーモニーからの時差生中継を聴いた。そちらでは最近流行りのヴァインベルクのトラムペット協奏曲がハーデンべルガーのソロでネルソンズ指揮で演奏された。
ネルソンズは、新しい曲や作曲家を紹介することがあって喜ばしいのだが、特にここ暫くの演奏が悪くなっている。放送でも紹介されるように楽団の演奏者の音楽を活かして云々は結構なことなのだけれども、音楽的にとても曖昧になって来ている。そうした芸術性は以前からあまり変わらないのだが、音楽的にとてももっちゃりになってしまっている。先週流れたライプチッヒでのデビューコンサート中継録音との差は大きい。当時33歳ぐらいだったようで、ムーティが日本でデビューしたぐらいの年齢である。
どうも「春の祭典」において楽曲のシステムのバランスに注目している様なのだけれど、その鳴りに注意が行って、リズム的な骨子などがぼやけて、それでも有機的な音楽の提示となっていないところが痛い。ザルツブルクで指揮したマーラーなども同じ傾向にあった。
ヴィーンでの後半のスクリャビンの「神聖な詩」は、残響の多い会場で鳴っていた。苦になったのはフィルハーモニカーの発声の不明瞭さで、中声部などは全く発音していなかった。勿論下に隠れるような音響となる所でもあるのだが、奈落の下ではそれで済むような合わせ方も板の上では要求されるものが異なる。恐らく演奏機会も殆どなかった楽曲での新たな仕込みは楽団にとってもお勉強になるだろう。ペトレンコはどこの楽団を振ってもそうした教育的な視野に立ってプログラムなどの選択をしているからである。
ヴィーナーの特徴は致し方がないのだが、それはそれなりに指揮者との関係や演奏会への合わせ方の手前が分かって来ていて、今後驚くような発展も期待できない半面、ある程度の協調作業は計算できるようになったのではなかろうか。
個人的な興味は、五年後十年後にヴィーナーフィルハーモニカーとザルツブルクでオペラなどを振ることがあるかどうかである。先ずはバイロイト復帰があってとなるだろうが、ベルリンでの仕事が安定してくるようになれば、復活祭の一演目だけではもったいないとなる時が来そうであるからだ。
参照:
ペトレンコ指揮に音をあげる 2016-04-04 | 音
客演のための課題曲 2018-12-10 | 音