Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

芸術内容の迫真性

2024-02-28 | 文化一般
ヒッチコック映画「眩暈」を観た。初めてだと思う。映画市場の最高の傑作だとされるもので、そこからの引用は数知れないようだ。なによりも高所恐怖症の主人公の症状を映像化するズーム機能を使ってのカメラワークだけでなく、1958年当時のサンフランシスコの街並みの美しさは最新のデジタル技術で迫真性がある。見事である。

そして、映画作りの編集やドラマテュルギーなども見事で2時間8分があっという間に流れる。それだけで見事で、芝居でも音楽劇場でもそうした緊迫感を保つのはとても難しい。音楽劇場作品や演出でも「マクベス夫人」やその他多くの作品がそれにあたり、またスリラーのそれを作品として使っていたのはハース作曲「ブルートハウス」でもあった。

しかし、映画として主人公やそれを取り巻く世界が如何ほどに描かれるかとなると、やはりヒッチコック映画における女性の描き方が一辺倒であって、到底今日では通じない。こうしたところがエンターティメント作品の限界であって、普遍性がない。即ち古臭くなる。それどころか突っ込みどころ満載で嘲笑も生じる。

上の「マクベス夫人」においての夫人の転落への物語にはやはりその社会情景無しには理解しにくいところもあって、その前提としてロシアからソヴィエトへの社会歴史が存在する。しかし、「ブルートハウス」における実父に性的な支配を受ける娘は恐らくそうした社会には関係がなく、永遠に本質的な筋書となっていて、ギリシャシ神話などと共通している。それによって、ハースの作曲は、オペラの起点にあるモンテヴェルディの作品に匹敵しており、五百年後にも演出演奏次第では人々にとても大きな効果を生じさせるのである。

例えば「ブルートハウス」においては不動産屋が狂言回し役となっているのだが、数百年も経たないでもそうした設定は演出上有効ではなくなる。必要な形に演出しなければ上演される価値もなくなる。音楽がそれだけの内容を表現しているということが前提なのである。

ヒッチコック作品はもう一つだけ観ておきたいと思うのがあるのだが、時間があるかどうか、動機付けが可能かどうか。週末の新曲初演では、「ブラックメール」における話しをMeTooとしているのだが、厳密に考えるとその男女関係には何一つハラスメントめいたものは感じない。しかしそれは主人公でもあるロンドンのタバコ屋の娘の当時の社会的な抑圧などが実感できないと理解できない社会的環境があるのかもしれない。そういう意味合いで、新曲はそうした心理的な関係迄を描けない事には一級の芸術音楽とはならないというところである。

陽射しが強くなってきた。車内でなどを閉めていると暑かった。週末はとても寒かったのだが、これで晴れてくれれば、朝の放射冷却だけで、その分昼間は陽射しの良い室内で気持ちよい季節となる。

ここ暫く用事もあって走るコースを従来のものを混ぜたことで、週10kmを超えることが続いたが、これで僅か1キロ増えても結構カロリーの使い方が変わった様に感じる。もう少しでパンツを脱いで走れる様になるので楽しみである。



参照:
時代がまだついて来ない 2023-11-27 | 文化一般
ミュンヘンでの新制作ベスト 2022-07-21 | マスメディア批評

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