Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音楽のCG映像色彩

2024-02-29 | 文化一般
「家庭交響曲」のキリル・ペトレンコによる解説動画を観た。先ずは、対位法の点に関して言及していたので、その動画の中でストラスブールで稽古を観ていたロマンロランの話しに同調する姿と私の姿が重なった。今回の演奏でやり遂げたことの一つはそれだった。そしても一つ重要な話しをしていて、その内容に関してである。ユーモアとかその細かな情景描写とか、「影のない女」との内容の共通性に関しては既にミュンヘン時代に同様のことが語られていたので、今更強調する必要は無い。しかし、明らかに話者の視点が変わって来ていて、嬉しそうに語っているのを観ると、もう直ぐ子供が出来るのかなと感じた。

同様に、恐らく復活祭で最も近づきそうな話しはエクスタシーの表現についてであって、そこでの不協和音の扱いかただろう。同時に「バラの騎士」滑稽味について言及しているので、復活祭からミラノでの公演までに一貫したものが示されるのであろう。

先日のクラスティング氏の記事内容からすると、バイロイトもまだ決定していないような趣もあり、夏のザルツブルクも若干不透明である。

引き続き、デュテユーとバルトークのプログラムのインタヴューを観た。聴き手がコーミッシェオパーからの仕事仲間であるバルダー氏とあって、よりプライヴェートのようにその考えが言葉になって表れて来ていて興味深かった。デュテユーに関しては、今迄は肩に触れるようなところで作曲家自身の室内楽曲を聴く耳元に注視していた以上の繋がりはもたなかったのだが、ペトレンコの入り方がとても興味深かった。最終的には演奏技術的な練磨によって、演奏すればするほど変わってくる曲として改めて日本での「英雄の生涯」を比較対象にしていたが、この間「ラペル」や「夏のメルヘン」、「シャンシェ」などを通して聴いて来た者にとっては、まさしく繰り返せば最早望むところがないという演奏になるのは十二分に承知している。ペトレンコ指揮で何回も繰り返されるオペラや演奏会は借金してでも行けるだけ通えということになる。それは嘗てのフルトヴェングラーファンが同曲異盤を集めるのにも似ていて、それだけその都度変わってくるということでもある。今頃になってデジタルコンサートホールでそれが語れれるのは些か寂しくもある。いづれにしても「夜の作曲家」としての紹介は、この作曲家との関係を深めれば深めるほど思い返されるに違いない。

先週末は急に寒かったので赤ワインを開けた。どれをと考えたのだが、フランスでの買い物も三週ほど遅れるので、独逸のピノノワールとした。2005年のオイルベルクと季節向けの名前の地所からのワインであるが、結構いい年のワインでも色が落ちて仕舞っていた。要するに終わっていた。勿論味も悪くはなく三日目にでも飲めたのであるが、寝かせる意味無しで、もう数年早く飲み干すべきであった。10年が限度だったろうか。シュペートレーゼと呼ぶにふさわしいワインで若干失望した。このようすなら更にいい年度のグランクリュワインもそれ程偉大には瓶熟成しない筈だ。

バルトーク「木彫りのプリンス」に関しての話しも興味深くて、「青髭公の城」の失敗をバラ・バラージュの助けで回復したくて二部構成で考えたという。そして勿論バラージュは今手元に開いている「映画の魂」の著者であるのだが、映画音楽になりそうな曲ということに対して、より言葉なくCG映画で再現可能でと、その旨がペトレンコから語られていて、取り分け興味深い。



参照:
芸術内容の迫真性 2024-02-28 | 文化一般
パターン化のスリリング 2024-02-26 | 音

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 芸術内容の迫真性 | トップ | 索引2024年02月 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿