Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

天候即ち偶然に頼って

2006-06-21 | 
堅さが良いのである。林檎でもなく、豆でもなく、ましてや鉱物でもない。若い娘さんである。ここ一年ほど顔を見ていなかった。久しぶりに顔を見て嬉しくなった。当然と言うかその新鮮さに翳りはなく、むしろ堅さの中にも落ち着きが出てきている。リースリングワインで言うと、樽だしから瓶詰めへと熟成した感じだ。

毎年同じ時期に同じような事を書いているようで気が引けるが、樽だしの時期も瓶詰めの時期も毎年同じように過ぎて、遠の昔に晩摘み以外の2005年産ワインは瓶詰めされている。そして今や夏至を前にして、夕立時以外は連日連夜窓を開け放した生活となっている。今年は、夏至が来る21日で、24日のヨハニの日へと続く。

しかし現代には「中国の七夕」はないので、何も天候即ち偶然に頼って一年に一度逢引すると言うほど「ロマンティック」なお話はなかなか通じない。携帯電話の番号やメールアドレスを交換するなりで、その気になって逢おうと思えば何時でも可能である。その反面、ある切っ掛けで脳裏に浮かんで、更に偶然に暫らくぶりで巡り合うと言う喜びも少なくなったのではないか。だからこうした機会を逃す訳にはいかない。

それでも、一年先に改めて想い浮かべて、同じように2006年産のワインを試飲するかのように、新鮮さと熟成に舌打ちするかどうかは判らない。そのような事を考えていると、車のラジオからリヒャルト・シュトラウスの楽劇「薔薇の騎士」の終幕のフィナーレが聞こえて来た。そこでは、フーゴ・ホフマンスタールが1910年ごろに作曲家と共同で準備した台本によって、近代ヨーロッパの終焉へと向かう大きな流れが、各々の恋人たちの儚い時の移り行きとして映し出される。観衆の視点のあり方を、本歌となっているモーツァルト「フィガロの結婚」と比べて見るが良い。

先週金曜日の夕立には、あっという間に粗摂氏10度近い気温の低下を見て、激しい雷雨に続いて大粒の雹が降った。どれほど農作物に被害を与えたのか。この時期としては珍しいが、充分に温まっていない大気からこうした事は予想されていた。本日は早朝の日差しが急に翳り、雷鳴に続き通り雨があった。

ある視点からは、天候の急変は偶然のように見えるのでそれを「青天の霹靂」と言う。しかし、天気図や衛星から雲の動きを観察すると、大抵の現象は自然な流れの中での連続したマクロな事象で、そこに因果律を観る事すら出来る。一般的に前者を主観的と呼び、後者を客観的と呼ぶ。



参照:
「聖なる朝の夢」の採点簿 [ 文化一般 ] / 2005-06-26
真夏のポストモダンの夢 [ 生活・暦 ] / 2005-06-25

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