Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

深まり往く観念連想の秋

2010-10-14 | 雑感
昨晩の石切り場で面白くも真剣な話が交わされていた。薮かどうか分からないが町のスポーツ医師が町の職人に語っていることなのだ。何処からそこへと進んだかは聞いていなかったが、職人が彼は「詩を詠んでいる」と言ったのはその通りだった。

要するに、自信が見掛けに表れるようになり、それが廻りに伝わり、人格として尊重されることで、その人の今度は万物に対しての感謝の気持ちとなり、再びそれが大きな進展となるとするもので、恐らくニッチェ風の思考形態に近い。もちろん、万物を神々と表現したものだから、私はそれを聞いていてへらへらとしてしまった。

「自信を持つことが容易ではないのだが」とふると、そこに「パラドックスがあるのだ」となった。

彼が、必要以上の「筋肉」の運動量でそれ以上に肉を貪るのは如何なものかと指摘しているのだが、彼の人生哲学はなるほどそれなりに納得できる。奥さんとの別れも、自分に落ち度は無かったと言うからそうなんだろう。
 
流石に高等教育を受けているだけの見識は見え隠れしたが、むしろ私は、それを聞いていた職人の態度やその精神のあり方にドイツの伝統的な職人の姿を観た。その彼自身は決して良くあるような親方風を吹かすようなタイプではないので、余計にこうした話題になったのだろう。しかしその部分が全く私には好ましく思われる人物像なのである。

最近も思い出した子供の頃の体験として、丁度現在の私と同じぐらいの年齢だった父親と職人との話を思い出す。その職人が現場で父親がした仕事を顧みてその賢明さ語っていた内容も覚えている。上の話とどこか共通していてとても懐かしい。

それどころか、栗拾いに来ていた子供たちの視線も自らのそのときの体験に繋がるもので、昨晩はおかしなタイムマシンに入り込んでいたかのようだ。こうして、まさに観念連想というものが文化の継承の一つの形態であることを遅まきながら実感するのであった。とても深まり往く秋なのである。

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