2004 05/09 編集
ベルリナー・フィルハーモニカーがフォン・カラヤン音楽賞をとって、その授与がバーデンバーデンで昨日行われた。プレゼンターの作曲家リーム氏は小講演をした。いつもながらの殆ど哲学的表現ながら、今日の文化に対する見解を上手く示した。特に伝統とその今日における享受を、音楽の聴衆と演奏者さらに著作権者の「対話」に、そして歴史的発展と現状に注目させることで、的確に定義した。ここにおける伝統は、送信側の伝えられた技術とかではなく、受け止め側の社会に立脚しているというのだ。氏の言うヴィットゲンシュタインを引用しての「住所不定」の音楽における考察を文化一般に拡大していくと、文化の地域性や地域の国際化等の議論のひとつの見解となる。このベテラン作曲家の思考は決して最前衛を行くものでないかもしれないが、それだけにより多くの人を納得させる。
話題のエリート学校政策をリーム氏に非難された同席していた州大臣トイフェル氏が、英才教育の実績で反論もするが、「現在ベルリンで、唯一真っ当な機関はこの楽団だ」と会場を沸かすとき、文化行政の難しさを想起させた。
さて楽団は、すべてを完璧に掌握した恐ろしく真剣な監督ラトル氏の円熟した指揮のもと、その文化的意義を具象化するかのように近年にない充実を示した。リーム氏の謂わんとするコマーシャル化され朽ち果てた価値を、文化的な意味合いにおいて、危機感の中で取り戻したようだ。凄みや憑かれたとこのない、このような求心的で緻密な魅力を示すことはこの半世紀で殆どなかったのではないだろうか。アメリカ文化やハプスブルク文化に対抗して「保護すべき」存在価値を十分に示した。経済論理の中ですべてを捉えなければならない今日、このような「市場経済から逸脱する価値」を設定する危険と文化の「博物館化」を避ける義務を聴衆も政治家も担っている。
ベルリナー・フィルハーモニカーがフォン・カラヤン音楽賞をとって、その授与がバーデンバーデンで昨日行われた。プレゼンターの作曲家リーム氏は小講演をした。いつもながらの殆ど哲学的表現ながら、今日の文化に対する見解を上手く示した。特に伝統とその今日における享受を、音楽の聴衆と演奏者さらに著作権者の「対話」に、そして歴史的発展と現状に注目させることで、的確に定義した。ここにおける伝統は、送信側の伝えられた技術とかではなく、受け止め側の社会に立脚しているというのだ。氏の言うヴィットゲンシュタインを引用しての「住所不定」の音楽における考察を文化一般に拡大していくと、文化の地域性や地域の国際化等の議論のひとつの見解となる。このベテラン作曲家の思考は決して最前衛を行くものでないかもしれないが、それだけにより多くの人を納得させる。
話題のエリート学校政策をリーム氏に非難された同席していた州大臣トイフェル氏が、英才教育の実績で反論もするが、「現在ベルリンで、唯一真っ当な機関はこの楽団だ」と会場を沸かすとき、文化行政の難しさを想起させた。
さて楽団は、すべてを完璧に掌握した恐ろしく真剣な監督ラトル氏の円熟した指揮のもと、その文化的意義を具象化するかのように近年にない充実を示した。リーム氏の謂わんとするコマーシャル化され朽ち果てた価値を、文化的な意味合いにおいて、危機感の中で取り戻したようだ。凄みや憑かれたとこのない、このような求心的で緻密な魅力を示すことはこの半世紀で殆どなかったのではないだろうか。アメリカ文化やハプスブルク文化に対抗して「保護すべき」存在価値を十分に示した。経済論理の中ですべてを捉えなければならない今日、このような「市場経済から逸脱する価値」を設定する危険と文化の「博物館化」を避ける義務を聴衆も政治家も担っている。
ベルリンフィルの特番でしたが、彼がベルリンフィルと子供たちと作った「春の祭典」の映画が、ユーロスペースで確か12月から封切りということを、同じ映画館にカフカの「変身」を見に行って知りました。
こちらのオーナー様はドイツにお住まいなんでしょうか。ドイツの話がいっぱいで嬉しいです!
ラトル氏は二十歳代のときから良く物事を考えて会話する人で、フォークナーとジョイスが当時の愛読書だったはずです。春の祭典の話は聞いていませんが、彼が当時青少年向きにロンドンでやっていた経験が生かされるものと思います。来年はドイツ際と聞いており、こうして情報交換が出来ればよいですね。
個人的にもカフカがお好きなようですが。プラハのあの狭い部屋も訪ねたことがあります。昨日述べた音楽会のボヘミア多重国性(もちろんユダヤ人社会文化も含めて)のテーマは、今後の政治的進展次第で再々繰り返される話題となると思います。
うーん、素敵だわっ!
私のサイトにも
「Lesen ist seliger als Fernsehen」
(読書はテレビより幸せ)と書いてあります。聖書の「Geben ist seliger als Nehmen」
(与えるほうが取るより幸せ)をもじったオリジナルのつもりが、Google.de したら、誰かのサイトに同じ言葉がありました。
この記事が気に入りましたのでコメントしておきます。
なんというか、薫りがありました。
政治家が文化に責任を負うというのは、不明。
負わないから政治家なのか、とも思いました。
しかし、西欧の方、インテリはやはりインテリだと思いました。本邦では、別の何かがあるのかもしれません。
何か、を探っていきたいです。
ではまた。
>経済論理の中ですべてを捉えなければならない今日、このような「市場経済から逸脱する価値」を設定する危険と文化の「博物館化」を避ける義務を聴衆も政治家も担っている。
とっても共感しました。
聴衆の力って、一人一人は微々たるものですけれど、聴衆は、やっぱり大きな力を持っていると思います。
一人一人の心持ちによって、その心持ちが束になると、とっても大きな力になるのでは…と。。。