Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ふれなければいけない話題

2015-06-29 | マスメディア批評
シナでも指揮者キリル・ペトレンコ推挙が大きな話題となっているようだ。これには少し驚いた。それは今開かれているベルリンのヴァルトビューネでのオープンエアーがシナ人の憧れの的になっているからだ。調べてみると朗朗がサイモン・ラトル指揮で登場する。なるほどと思った。日本での爆買いと同じように、どこかに火付け役がいると、十億人の中の決して少なくない群に強い働きかけをしてしまうようだ。マスの恐ろしさは他の民族どころの量感ではない。先日話題となっていた六千人のフランスへの旅行団もフランス中のバスが集められて、団長の実業家はフランスの国務大臣に迎えられたという。因みにヴァルトビューネの入場者数は二万人を超えているから、スタジアム規模なので少々のシナ人が押しかけてもそれほど問題にはならないだろう。

そのような背景もあってシナでもベルリンの交響楽団の指揮者が誰になるか、否音楽監督が誰になるかと、我々でもあまり気にしないような楽屋裏の話のようなものが巷で話されていると聞いて本当に驚いている。日本における西洋音楽の歴史は、軍楽隊は別にしても、飽くまでも啓蒙思想における教養主義が基本にあったために、どうしても通的な感覚が蔓延っていて、上のようなシナ人の感覚からは大分遠い。

ここ十年ほどは音楽産業もシナの市場を抜きにしては語れないのは当然で ― 遠に亡くなった文化勲章の吉田秀和がこの事業に寄与していたと聞く、だから市場に朗朗のような音楽家は欠かせなかった。そして、今回の反応を見ると友好国ロシアの音楽家がサーカス団長になったとして、予想外の反応を示しているようで、今回の決定で鼻息が荒くなったのはバーデン・バーデンの関係者だけではないだろう。バーデン・バーデンへの観光客の増加はロシア人を筆頭に見込まれるが、シナ人も視野に入ってくるのかもしれない。火付け役の腕次第だろうか?それでも来年のヨーヨーマまでなら良いが、りんりんらんらんとなるとこれは御免である。

第一報を告げたディヴェルト紙の親仁のブログ記事と、北ドイツ放送局の反ユダヤ主義発言が大きな話題となって、事後の火種がまだ完全に冷え切っておらず、白煙のようなものが上がっている。前者の特種ねは指揮者ティーレマン一味の最後の一声でもあったかのようだ。後者は、生放送にて敗北したティーーレマンを贔屓して、「ドイツの響きのエキスパートで、その出で立ちは気品溢れる父性ヴォータン如しで、一方ペトレンコはユダヤの小さなグノーム如きで、アルベリヒのようだ」と語り、批判を受ける前に、「決して平均化はいけないのだ」と逃げたとあるから確信犯である ― 誰がミーメか、誰がローゲかは知らないが、まるでゲルマン神話に呪われているかのようなドイツ民族的な感覚はとても現実的なものである。

文字に残して、それを更に自己編集したその記録が残ることで余計に悪巧みを感じさせたのは前者で、「ベルリンの一つの椅子にダニエル・バレンボイム、イヴァン・フィッシャー、キリル・ペトレンコの三人のユダヤ人が」と書いて、ティーレマンがそのようにしたであろうと同様にと悔しさをにじませて、「幸いにもペトレンコは人間的によそ者にならないところが大きいだろう」と述べて、人種主義的な見解を明白にしておきながら、それを自制するように、態々「七十年前とは違うことを喜びつつ」と書き直している ― それどころかこの御仁は、またバイロイトの稽古始での「イゾルテ」キャンセルを巡って新記事を書いており、ここ数年で最大の話題となったアンニャ・カムペの代わりに飛びいる歌手を絶賛しつつ、ティーレマン一味を援護している。何て卑怯な男だろう。

ドイツ最大の公共放送局から、またシュプレンガー出版社のドイツ有数の高級紙からこうした声が聞こえるのはとても情けない。その背景にはティーレマンのような音楽家をのさばらせた社会背景がある。ここで述べられていて、ノイエムズィークツァイツゥングで反論されていることは、詰まらない社会的な動きと見えるが、実はこれはとても芸術文化的な背景があることを忘れてはてはならない。それどころか芸術文化の本質へと迫ることなのだ。つまり負け犬の遠吠えのばか者たちと、それらの理不尽と嘲笑していてはいけないということだ。

今回のベルリンのフィルハーモニカーの選択の裏話として、ティーレマンへの拒絶が強かったということに尽きる。150人の普通の楽師さんのなかではそれなりの人気があって後継者候補に上っていたことが伝えられてる一方、楽団理事会における拒絶とともに反対の意思が半数を超えていたと見えて選任は不可能とされたことで、あらかじめ「ティーレマンは投げた」ということになる。恐らくネルソンズへの強い支持は三分の一も超えなかったのだろう。ヴェテランを除外した後では、実力が抜きに出たペトレンコが最終選択で多数を得たことになる。

フランクフルターアルゲマイネ紙は、この話題をメディア欄でティーレマン支持の女性評論家が扱っている。そして社会芸術的な面に立ち入ることを避けている。要するに安物の話題として流しているに違いない。しかし、これを文化芸術的に扱おうと思えば、とても音楽的な本質へと掘り起こしていかないとならないので、到底彼女の実力では触れることが出来ないのだ。



参照:
Kirill Petrenko wird die Berliner hart rannehmen, Manuel Brug
Verlogene Differenzierung, nmz
Antisemitien-Salon, Was "Welt" und NDR zu Kirill Petrenko sagen, ist unfassbar, FAZ vom 26.7.2015
小さな新帝王誕生の可能性 2015-06-23 | 音
楽譜から響く管弦楽サウンド 2015-06-24 | 文化一般
アルベリヒは南仏に消えて、 2015-06-14 | 雑感

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