クリストマンVDP会長に出会った。先日オェールベルク2009年ものを開けたクリストマン醸造所のオーナーだ。いつもの肉屋でのことだ。最近はご無沙汰しているのだが、「まだまだ新鮮だった」というと「いいだろう」と喜んでいた。最近は本格的なピノノワールはゼーガー醸造所か、フランスのスーパーものになってしまっているが、良い年度は再びドイツのシュペートブルグンダーを買いたい。ただし十年に二度あるかどうかなのが問題だ。
新聞を読んでいると、ローマ法王の脳腫瘍の医者福島氏が、イタリアの新聞で金にものを言わせて患者の順番を決めると批判されているそうだ。最近は日本でもフェアーな医療とは、どういうものかとの議論が多いらしい。フクシマ禍の年少の甲状腺がんの多発で過剰診断医療が問題になってきている ― 勿論、最新論文で明らかになったように、広範囲に多くの若い日本人が疾患に苦しむことになる。最終的な結論は簡単だろう。死亡率を見れば、がん検査が其の価値があるかどうかがわかる。それも五年生存率ではなくて最終的な寿命を見ればわかる。いろいろな専門医など友人の話を総合すると、医療は最終的には経済行為なので金に余裕があれば医療を受け、無ければ健康維持を心がけるだけであろう。国民皆保険は悪くはないのかもしれないが、主に社会保障として社会の弱者に対して施すもので、年金などと同じように自由化すべきものだろう。要するに、フェアーな医療とは同じ治療を皆が同じように受けるようなことでは決してなくて、業者や許認可権を持った官僚組織を肥やすような保険や医療行為を一切断念することに尽きる。
金曜日のミュンヘンからの中継は酷かった。まともにストリーミングできなかった。理由はわからないが、放送局の責任のある中継ではなく、劇場が無料で世界中に流しているだけで、これに文句を言う人はいないからだ。録音や画像などはかなりの高品質であることは確認できたが、抑えた状態でもまともにストリーミングができないほど、好きなように高品質で制作している感じだった。完全にストリーミングのサーヴァーの限界を超えているのだろう。一体なんの目的で流しているのかわからないが、穿った見方をすれば、一つには記録を残しておくことと、販促のような目的を兼ねているのだろう。前者は以前小さなレーベルが商品化していたものがあったが、DVDは現状ではなかなか商品化も難しいだろう。後者は、これで十分見たければ劇場に来いということだろうが、あの視角で見ようと思えば、かなりの高額券を購入しなければならない。
それでも立ち見席からはわからなかった舞台は見れた。最も印象に残ったのは始まる前のバレー練習情景での音楽にエーデルヴァイスの歌が流れていたことで、流石に生では音を絞っていて聞こえなかった。これはハリウッドのエンターティメントを自覚させるそのものなのだが、実際の第二部オペラの情景ではもう一つ十分にそのパロディー精神が活きていなかった ― いつかのザルツブルクでの「バラの騎士」の宝塚のレヴューのパロディーの方が分かりやすかったが、鏡を使っているのも同じだった。
偶々、クリスマス前に再演を体験する前任者ケント・ナガノ時代の「神々の黄昏」の最終景をYOUTUBEでみたが、其の音楽がまるで幼稚園のままごとの音楽のようだった。ケント・ナガノはオペラにおいては小沢などとは比較にならない経験と成功を修めていて、その指揮は多くのヴァークナーを含むオペラや演奏を生で体験しており、CDも比較的多く所持しているがこれほどまでに杜撰な演奏をしているとは思わなかった。なるほどミュンヘンでは十分な成功が得られなかった筈だ。ああした大曲のフィナーレで十分に副次的な楽想迄コントロールできていない理由を考えさせられる。管弦楽団の実力は変わらないわけだが、やはり手際よい練習のためには後任のペトレンコのように練習場に来た時には全て決まっていないと与えられた時間で練習できないということに尽きるのだろう。要するに譜面を読む能力の差異ということになる。稀有の祭神否才人が現れると皆頭を垂れ、沈黙するしかなくなるということらしい。
参照:
ペトレンコ教授のナクソス島 2015-10-22 | 音
ダールマイルのフィレ肉 2015-10-23 | 料理
新聞を読んでいると、ローマ法王の脳腫瘍の医者福島氏が、イタリアの新聞で金にものを言わせて患者の順番を決めると批判されているそうだ。最近は日本でもフェアーな医療とは、どういうものかとの議論が多いらしい。フクシマ禍の年少の甲状腺がんの多発で過剰診断医療が問題になってきている ― 勿論、最新論文で明らかになったように、広範囲に多くの若い日本人が疾患に苦しむことになる。最終的な結論は簡単だろう。死亡率を見れば、がん検査が其の価値があるかどうかがわかる。それも五年生存率ではなくて最終的な寿命を見ればわかる。いろいろな専門医など友人の話を総合すると、医療は最終的には経済行為なので金に余裕があれば医療を受け、無ければ健康維持を心がけるだけであろう。国民皆保険は悪くはないのかもしれないが、主に社会保障として社会の弱者に対して施すもので、年金などと同じように自由化すべきものだろう。要するに、フェアーな医療とは同じ治療を皆が同じように受けるようなことでは決してなくて、業者や許認可権を持った官僚組織を肥やすような保険や医療行為を一切断念することに尽きる。
金曜日のミュンヘンからの中継は酷かった。まともにストリーミングできなかった。理由はわからないが、放送局の責任のある中継ではなく、劇場が無料で世界中に流しているだけで、これに文句を言う人はいないからだ。録音や画像などはかなりの高品質であることは確認できたが、抑えた状態でもまともにストリーミングができないほど、好きなように高品質で制作している感じだった。完全にストリーミングのサーヴァーの限界を超えているのだろう。一体なんの目的で流しているのかわからないが、穿った見方をすれば、一つには記録を残しておくことと、販促のような目的を兼ねているのだろう。前者は以前小さなレーベルが商品化していたものがあったが、DVDは現状ではなかなか商品化も難しいだろう。後者は、これで十分見たければ劇場に来いということだろうが、あの視角で見ようと思えば、かなりの高額券を購入しなければならない。
それでも立ち見席からはわからなかった舞台は見れた。最も印象に残ったのは始まる前のバレー練習情景での音楽にエーデルヴァイスの歌が流れていたことで、流石に生では音を絞っていて聞こえなかった。これはハリウッドのエンターティメントを自覚させるそのものなのだが、実際の第二部オペラの情景ではもう一つ十分にそのパロディー精神が活きていなかった ― いつかのザルツブルクでの「バラの騎士」の宝塚のレヴューのパロディーの方が分かりやすかったが、鏡を使っているのも同じだった。
偶々、クリスマス前に再演を体験する前任者ケント・ナガノ時代の「神々の黄昏」の最終景をYOUTUBEでみたが、其の音楽がまるで幼稚園のままごとの音楽のようだった。ケント・ナガノはオペラにおいては小沢などとは比較にならない経験と成功を修めていて、その指揮は多くのヴァークナーを含むオペラや演奏を生で体験しており、CDも比較的多く所持しているがこれほどまでに杜撰な演奏をしているとは思わなかった。なるほどミュンヘンでは十分な成功が得られなかった筈だ。ああした大曲のフィナーレで十分に副次的な楽想迄コントロールできていない理由を考えさせられる。管弦楽団の実力は変わらないわけだが、やはり手際よい練習のためには後任のペトレンコのように練習場に来た時には全て決まっていないと与えられた時間で練習できないということに尽きるのだろう。要するに譜面を読む能力の差異ということになる。稀有の祭神否才人が現れると皆頭を垂れ、沈黙するしかなくなるということらしい。
参照:
ペトレンコ教授のナクソス島 2015-10-22 | 音
ダールマイルのフィレ肉 2015-10-23 | 料理