Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ペトレンコ教授のナクソス島

2015-10-22 | 
リヒャルト・シュトラウス作「ナクソス島のアリアドネ」の再演をキリル・ペトレンコ指揮で聞いた ― このプロジェクトは前任者ケント・ナガノの時のものらしい。今回も立見席なので舞台の半分以上は見えていない。だから演出に関しては金曜日のライヴストリーミングを見なければ分からない。そして、第二部のオペラのクライマックスでは隣の隣の婆さんが倒れたので重要なところを聞き逃している ― 高齢者は、休憩無しの二時間半だったが、立見はやめた方が良い。

この公演は友の会が協賛しているようで、公演前にはパーティーが開かれていて、招待された嘗ての名歌手陣と集っていたようだ。ブリギッテ・ファスベンダー、エディット・マティス、そしてアリアドネ録音のレリ・グリスト、ヒルデガルト・ヒレブレヒトなどである。終演後に二ダースの歌手陣がアウトグラム会を開いた。

帰路の車中、バイエルン放送局クラシックが七月に亡くなったジャズピアニスト菊地雅章の追悼番組をやっていた。恥ずかしながらほとんど知らない名前だった ― 共演のゲイリー・ピーコックらの名前に、私の意識ではこの日本人の名前がマスキングされてしまっていたようだ。彼の二つのアルバム、トスカを含むプッチーニ讃とクルト・ヴァイルの作品をベースにした作品が紹介されていた。

歌劇場の今回のパリ公演に関して、劇場支配人は仕事を語っていた。それは丁度この歌劇のプロローグにあるような「劇場現実」を絡めて、如何に芸術とエンターティメント、要するにドイツ語で言うところのERNSTとUNTERHALTUNGの狭間でプロジェクトを成功させていくかの苦労を語っている。EとUを対立させるにせよ、それらを抱合してしまうにせよ、それは、特に国立の歌劇場が社会との繋がりにおいて、最も重要な芸術的な課題であることには間違いない。

この歌劇の第二部はその通り劇中劇なのだ。それならばその前のプロローグと題する第一部は一体なになのか?それを上の友の会の人たち集いのような世界での楽屋落ちとしてしまうだけでよいのか?そしてそのような作品を創作した作曲家の著作権こそがつい先程まで極東日本の裁判所で争われ、そして生前中に最も稼いだのがこの作曲家であり、その作品だったのだ。

それでもこの作曲家がここで可成り真面目に取り組んだことは、エンターティメントとしてのその管弦楽法だけではなく、「言葉が先か音楽が先か」の何百年にも及ぶ芸術論争の解決であり、まさしくその答えとしてのこのプロローグではなかろうか。それに美しい回答を与えたのが今回のプロローグの演奏実践であった。先日ここでも述べていたように、とても解決の難しい部分がこの楽譜にあって、それをどのように解決してくれるかがとても楽しみだった。

パリでこのプロローグばかりを練習していたように、指揮者はここでもとても厳密な譜読みをしていた。それは、なるほど最後の拍でクラリネットが響くとか、ファゴットが残るとか、またホルンの名人芸の一くさりなどの鮮やかさはあっても、基本は室内楽的な精妙さと、歌詞そして台詞との「間の取り方」が、この楽譜の問題の解決である。またまた、この稀有な芸術家ペトレンコに教えられる想定外の回答だった。丁度、指揮者の左手だけが見えて、右のタクトが見えない位置に立っていたので、余計にソリスツへのキューが目に付いた。

指揮者としての大先輩でもある作曲家シュトラウスこそは鳴り響く音をそのまま楽譜にできた人物であり、その楽譜が読めるのがこの後輩の指揮者ペトレンコであろう。歌詞や台詞が入れ替わる時の驚くほどのアゴーギクなどの解決策は全て楽譜に細かく書かれているものなのだ。

本当に楽譜が読める指揮者はあまりいないということをシュトラウスを得意にしている指揮者ティーレマンが馬鹿正直に語っているのを思い出す。「ニーベルンゲンの指輪などの大作は、楽譜を勉強しても、何度も指揮しないと分からない」と、いかにもドイツ人的な素直さで語るその人物像はとても好ましいが、芸術家にはなによりも高い知能が要求される。楽譜を正確に読み取る能力は、身体的な音楽的能力以前の土台となるその職人的な技能そのものであるということである。

その一部に比較すると、パリで共演したヨーナス・カウフマンの指す管弦楽との掛け合いは、劇中劇の舞台と奈落の間では十分にはなされていなかった。理由は簡単で、一つは芝居をしなければいけない歌手に合わせる難しさと、その物理的な距離感に、そしてもしかするとその役を担ったペーター・ザイフェルトのカウフマンとは異なる瞬発力の無さなのかもしれない。そしてなによりも、この二部自体はやはり微妙なエンターティメント性を示す作曲になっている。

今回の演奏の核はプロローグにあったと書いたが、そもそもそこに音楽的な素材がぎっしり詰まっている。この辺りに、この作曲家が何を考えてどのような創作態度でいたかがよく分かる。楽劇「ばらの騎士」で圧倒的な大成功をしてエンターティメントを制覇した作曲家が、次になすことは何だったのか。指揮者ペトレンコにとっては、恐らく彼のメインレパートリーになるであろうシェーンベルク作曲などのシュプレッヒゲザンクや声の使い方、そしてそのテキストの在り方に繋がる創作への示唆がそこに見いだされただろう。

ホフマンスタールのテキストは、この歌劇場の舞台の上に示されるテロップのドイツ語よってその意味するところは明白となって、隣の芝居小屋のそれにも劣らない歌芝居の価値を持つ。その精妙なこと極まるが、そうしたものを経験すべき若いお嬢さんなどが訪れていて、まさしくそこに税金を使って運営する国立歌劇場の存在意義がある。指揮者ペトレンコのお蔭で、若い聴衆も増えてきているようで、それは私など下らない歌芝居は御免だと思っていた人間もこうして「超オペラ」を体験することになっている。

菊地雅章のピアノをして、「シャープでエッジが立っている音色」と車中のラディオは何回も紹介していたが、ミュンヘンからの文化の発信はこうして十分に世界の最先端へと鎬を削ることになる。芸術的な指導者としてもこの音楽監督は桁外れで、ベルリンでのプログラムにおいても「教育的目的」としているのは管弦楽団や聴衆をも含む社会を教育するということでしかない。プロフェッサーのタイトルが最も似合う指揮者である。因みに、「ヴァルキューレ」再演は降りたが、その代り「ルル」を最後まで振っていたようだ。理由は分からないが、教育的配慮から人に任せてはおけなかったのではなかろうか。



参照:
まるで鉛のような鈍腕さ 2015-10-10 | 音
伯林の薔薇への期待の相違 2015-03-29 | 音
耳を疑い、目を見張る 2015-05-27 | 音 

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