桑名城は、永正年間(1504年~1521年)、この地を支配した伊藤氏が設けたのが最初と伝えられています。
さらに、織田信長の家臣の滝川一益が治めた後、、一柳右近や氏家行広と城主をたびたび変えてきました。。
関が原の合戦の翌年である慶長6年(1601年)、徳川家康は四天王の一人、本多忠勝を10万石で桑名に配置しました。
忠勝は近世城郭を完成させ、城下の町割りを行って桑名藩を成立させました。
後に城主は久松松平家、久松松平家、そして再び久松松平家と幾度か代わりましたがいずれも、徳川家の血縁で固めているのは、この土地がきわめて重要であったためだと思われます。
現在は九華公園となり広く市民に開放されています。
これが九華公園の案内図(現地案内板)
そして、かつての桑名城の絵図(現地案内板)
本丸跡には鎮国守国神社が置かれています。
辰巳櫓跡
天守閣は元禄14年(1701年)に消失してしまい、以後辰巳櫓がかの代わりを担ってきました。
明治維新の際、桑名城主は会津藩主の弟であったため、新政府軍によって焼き払われてしまいました。
なぜか、大砲が置かれていました。
朝日丸跡は野球場になっていました。
橋を渡ると二の丸跡
少し離れたところにある三の丸跡です。
復元された蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)
1階は付近にある3つの水門の管理事務所になっています。
2階は展望室に開放されています。
展望室からのぞいてみると、長良川河口堰が・・・
地名に名残がありますね。
九華公園内に見られる石垣は新しいのもので、桑名城の遺構ではありません。
しかし、公園の外側には当時の石垣が残っていました。
九華公園
三重県桑名市吉之丸5-1
長良川河口堰って・・・ダムカードがあったのでは・・・笑
河口堰、よくTV・新聞等で出ていた事を思い出しました。橋吉さんの記事で仕事で行ってもほとんど観光はしていない事に気づかされます。(メインは仕事なので仕方ありませんが)
スティードでデモの先導をしたような気もしますが遠い昔のことですから定かではありません。何十台(百台以上いてたかも)ものバイクの先頭を走るのは気持ちが良かったような気もしますが、気のせいかもしれません。
はい、この間NHKのオンデマンドで「徳川慶勝」を見たばかりでしたので。
官房副長官ではありません・・・1枚目の写真は迫力ありますねぇ~でっ、誰?
あんなヘルメットを特注してフォーサイトに乗って行っても、一緒に走ってもらえるでしょうか?
めっぽう歴史が苦手な私ですが、一枚目の写真を拝見して思いました。
「そうだ、クワガタでも探しに行こう!」と
桑名城は九華公園としてきれいに整備されていました。市民に広く開放されて利用されているようです。
それに比べて、長良川河口堰は誰のために作ったのでしょうか。地元の人間のほとんどが必要と思っていません。
河口堰、かつては長島町でした。今回のツーリングで桑名市にへ編入されたことを初めて知りましたが、実は7年も前の話と聞いて二度びっくりです。
仕事のついでに観光できるといいんですけど、時間的にも気持ち的にも余裕がないとなかなかできないですね。
妙案があります。まず河口堰の水門は全部開ける。で、あの施設は作ってしまったので、釣り公園として市民に開放する(入場料を取っても良いと思う)のはどうでしょうか。
京都にいる間に藩が新政府軍に降伏したため松平定敬は桑名に戻れず、会津・函館と最後まで戦わざるを得なくなります。この人生は十分ドラマになると思います。
尾張藩は早めに朝廷に恭順の意を示したので兄弟の中でも徳川慶勝はさほど辛酸をなめずに済んだみたいですね。