橋本屋吉次郎電子日誌

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箕輪城

2011-09-28 | お城巡り(日本100名城)

箕輪城は1512(永正9)年、長野業尚によって築かれたのが始まりとされます。
やがて上杉謙信が後ろ盾となると長野氏は西上野を束ねる旗頭的存在となり、武田氏や北条氏の侵攻を何度も防いでいます。
箕輪城も戦場となり度々攻防戦が繰り広げられましたが1566(永禄9年)武田軍の総攻撃で遂に落城し奪われてしまいます。
武田氏が滅ぶと北条氏、滝川一益、北条氏と入れ替わり、1590(天正18)年徳川家康の重臣である井伊直政が12万石で入封し、近代的な城郭に改修されました。

日本百名城のひとつでスタンプは高崎市役所箕郷(みさと)支所に置かれています。なお、土日祝でも休日窓口に置かれており対応してもらえます。

支所のすぐ隣には旧下田邸があります。


下田氏は長野氏のもともと重臣で、江戸時代には代官をつとめた家柄です。
なお、庭園は堀部安兵衛が作庭したといわれています。

箕輪城は小高い丘を利用した平山城です。



二の丸は、公園になっておりここに駐車しました。
ボランティアの方からパンフレットをいただきました。


復元想像図

 


馬出
本丸防衛のためにテラス状に突き出た部分ですが、現地の見てもわかりにくかったです。


本丸

周囲は土塁に囲まれています。



御前曲輪
本丸に隣接しており、長野氏は籠城の際、ここで自害されているので精神的要の場所であったと推察されます。


御前曲輪奥にある井戸
昭和2年、豪雨のため一部地盤沈下して発見されました。


深さ20m、この中から長野氏累代の墓がでてきたそうです。
最期の時、破壊を免れるためにほうり込んだのでしょうか。



大堀切り


土橋
城の中央部は、深い堀で南北に分断されています。
それをつなぐのは細い土橋のみです。
これは片方失ったときももう一方のみで戦闘を続けられるようにしたもので「一城別郭の城」とよばれているそうです。



郭馬出
大型の馬出でここに兵を集結させて一気に打ってでるようになっていました。



木俣
井伊氏の重臣の屋敷があったとされているところです。


林の向こうが三の丸です。


箕輪城にはほとんど石垣が使われていませんが、三の丸の側面と入口とだけは観察することができます。


1598(慶長3)年に箕輪城は廃城になりました、木材は新しくできた高崎城に利用されたと言われています。
したがって、今となっては土塁・堀切・石垣から当時をしのぶしかありませんね。

 

箕輪城
住所:群馬県群馬郡箕郷町
西明屋字城山


高崎市役所箕郷支所
住所:群馬県高崎市箕郷町西明屋702番地4

コメント (14)
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