風が出て来て、雨が降るかというと、風だけでおさまっている感じ。今日の雨のピークは午前
中かも知れず、ちょうど巨大な雨雲、雷雲もあっただろう、その端っこがこの辺りを通過した時
間、激しい雨が降ったが、その後は結果として、穏やかだった。それでもパラパラ程度雨は降っ
た。雨が降って、もうどうしようも出来ない、竹というか、笹という植物がただただ背を伸ばし
て、これがある方向の光を遮ってしまう。去年もそうゆうことになりでもかなりは、大風とそれと大
雪で、傾いて、あるものは折れた。かなわないものである。
竹とか、笹とかあるところは、この辺りでも他にもあるようだが、それのあるところは同じよ
うに、笹か竹は伸びて、あっさりとしている。でもここの竹はちょっと執念深い感じがあって、や
けにひどい出方をする。昔はさほどでもなかったのだけど。竹の根っこの辺りの構造を考える
に、マグマのような栄養の塊でもありそうなので、これが怖い。そのうち、地面が盛り上がるので
はないか。そうゆう妄想さえしてしまう、今日この頃で頭の痛い出来事は、他にもたくさんある。竹
が枯れるというときがあるそうだ。それを待つしかないが、一体いつになるやら。
本はどっちだというと、飾りで昔は買った方だと思う。そのほとんどが残っているもの、手元
にあるものだが、みなこれまたお化け屋敷と化した物置に置いてあって、かなりの年月蓋を開けて
いない。もうよれよれ、カビも生えてまた虫にも喰われて、そうとうひどいことになっている。
そう思う。でも、余り貴重なという本は思い出せない。雑誌とかで、趣味のものがある。その趣味
も変わってゆくものでそれこそ図書館で、役割は十分果たせそうだ。雑誌は今はいらないと思う。
それから、雑誌を買うことも控えている。雑誌の運命というものを考えるが、これは若い人は
多いに買うべきだろう。それで年月がたってまだ残るなら、それは書架に並べればいい。どうゆう
ものが並ぶかは、見る人が、本人でなくてそれを楽しみにするだろう。
古い本とかは、もういない父のものもあるが、これなどは彼が若いときのものは少しは本
は読んだと思うけど、残っているものはやけに少ない。さらに、昔のいえを壊したとき、そのとき
にかなり古いと思える本もきっとゴミ同様消えてしまったのだろう。惜しいような気がするが、ま
ったく本というものに興味もなかったから、そこまで考えることはなかった。
本というと、大きな本屋さんには、今も莫大な量の本が陳列されているのだろう。その多くは
どうゆう風な動きをするのか、眠っているままか、さらに返本の山となる、その対象か。なんど
も昔は本屋さんに足を運んで、それこそ半日はないが、休みの有効時間を本屋さんで使って、大し
て本は買わなかった。本の値段というのも、空中外交とか、列島の国の空の上を通過して、それで
外交というものがなされた時があったが、そのわずか後に、驚くべき値段の上昇があって、本はいっ
てみると、子供の時のわずかな小遣いで買っていたのと同じ状態になったと思う。極めて限られた
量の本しか買えなくなった。なにしろ、定価が3、4倍上がるのは当たり前という状態になった。部厚
いと思えた全集なり、作品集が千円札でお釣りが来る値で買えたのが、それがその2倍3倍になっ
たのだから、これではますます本は買えなくなる。
これでよかったという感じがあるのは、買っても読まないというものもあるが、引越しとか
考えると、その量はやっぱり限られるようだ。習慣というもの、本を読むという、それもなかった。
その後も本は高いという感じを持ち続けるが、なにしろ売れないとなると、さらに値段は高くなる。
それゆえ、買えるものはというと、PR誌ということにもなる。これだけはまじめに読む習慣をつ
けたがこれもある時間からおかしくなった。
PR誌に先に出てその後に作品となり、新書なり単行本でまたもう一度世に出る本は多いが、
その本が新聞の書評に出たりで、それのもととなるもの、つまりPR誌で見ているものが、書評欄で
出るという場合もたまにある。繰り返しになった。たまーにである。それで幸いなのは、さてど
うゆうことが書いてあったか忘れたということが大部分であるということ。
本の解説みたいな感じもあるが、いってみると誘導本とゆうか読書案内でもあり、読書への誘惑
でもある書評で、でも文庫とかで出ている全集などもう読むことはないだろう。世界文学全集
なども、列島の国のものなども知らない。ときに、PR誌にその解説のようなものは載るが。
それでなにがどうなろうとかまわない感じがあるが、昔PR誌に載ったとわかっていて買う
本がある。それを読む。時間差というのもかなりのものだが、覚えているものもあれば、なんだか
全然思い出せないものもある。圧倒的に後者が多い。今回はもう一度は読んでいるとわかって
買っているが、それでも忘れていて、読むと新鮮である。世の中もわからないが、自分の脳みその
状態もよくはわからない。世に名著は多いそうだが、せいぜいさわりだけでも知っていた方が
得なような気もする。でもそうゆうこともこの先はありそうにない。
アジサイというのを、それはここにあるガクアジサイのようで、どうかわからない、というも
のだが、これを真横からみるということは余りない。背が低いというのもある。花が平面に近い
構造を持つ。平面で見る方がわかりやすい感じがある。それで上か斜めで、真横はなかった。
途中ふと真横から、という考えが浮かんだ。大したことでもない。極めると、ネタ不足で、
窮余の策とも。
赤い色が鮮明になったというのは、初めて出るかも。
多くはでもまだ、白い花のまま。中央の粒粒の花の色も淡い。白と黒
と、濃い緑の空間ともいえる。
代わり映えがしない。
腰を低くして、というのをようやく思いつく。なぜかここからの方向の
ものは、背の低いアジサイではなかった。
雰囲気。
粒粒の花のほうに、同じように水平方向から近寄る。粒粒が見えて、霞
むものがある。
上から、あるいは斜めから見るのとたしかに様子は違う。真っ白だな。
アジサイは白というより、光は飽和しているようで、アジサイの濃い緑
の葉っぱの美しさがはっきりとする。