街のいろいろがある。天気のいろいろもあって、謎めいた感じのものは多い。昔は、例えば街歩き
にしても地図を広げて、あるいは住んでいるところから少し先へ、何も見ずに出かけ歩き続けると、
大通りに出て、ここはどこだろうか、とか思うこともあった。未知の道があって、知っていてもいい
ような賑やかな街角に出る。なかなか面白い探検というか、散歩というか、遊びというか冒険で
もあって、これはいってみると後で考えると、どってことはないただの最初の一歩だったりもす
る。
歩くかどうか、昔といってもつい去年ではない、おととしくらいは遠回りして買い物にゆき、遠
回りして買い物から帰るということをやった。今はやらない。それゆえか、段々と足腰の状態も
ちょっとした出来事に耐えられなくなる。大雪は、去年から今年はひどかった。これはこたえた。
でもどうにか最悪の結果というのはなくて、考えてみるともう少し手を抜いてもよいところはあ
った。でも、それも出来ないとなると、それこそどうなるかわからない。
この先は安穏ではなく、不安の大小しか残されていないような、感じが、確証に変わったこの
冬の出来事で、春も春で、大変で夏は夏で大変になりそうだ。そう思う。だから、朝から足首が痛い
とか、思うようにもなる。もっとも、このことは、ごく最近までは本当になかった。雪深いところ
で、足首が折れ曲がりそうになるときは多いが、なんとか乗り切った。
最近で、この足のどうのこうのは、一つは竹の若いものを切り取るという作業で、右足に力が入
ってというのが一番の原因のようで、こうゆうものも柔らかいものしかやらないが、足元が不安定で、
切り株も残れば倒れる竹か笹かの上に乗って、そこから鍬を振り下ろしているから力の入れ具合に
よってはひっくり返りそうにもなる。まるで、サーカスで、そうゆうところはもうやらないと決め
た。なんだか世も末だと思う、足首の痛みであるが、これももう少し様子をみて、どうにかしない
といけない。これと比べると腱鞘炎というのは、それが手首で多いがそれは直ったりもし、またい
つ痛みが出るかわからない。足か手か、どちらも大事でそれを使って、雪をどけ、またものを切って
いる。
最初の未知の道というのは誰にでもあるもので、手を引かれる子供の時期を過ぎると、それこそ
子供と未知の、それ以外だともう少し大きくなって、自分から知らない道を歩かないといけない時
期になる。これはかなり必然性がある。本能に近いものが、この向こうはどうなっているか知
りたいという思いを募らせる。
もういい大人という時期が誰にでも来るが、見掛け倒しで終わったという感じで、これはどうで
もいいが方向音痴ということばは今もあるのか。さて知らないところに出てみるとどうすればいい
かこれは誰でも迷うもので、頭に地図があろうがなかろうが、地図は現実ではないから、行き当たり
ばったりとさほど変わらない。道はまだいい方で、これが大きな駅だとそれこそ迷子になる。さら
に、関東辺りの地下鉄というと、これが昔はなおのこと少なかったが、私も当然ながら迷った。反対
にいって戻ることが出来ないということもある。これは当時最大の難問でもあったけど、池袋駅と
か、新宿駅はいくら案内があっても今は迷うだろう。地下鉄は特に迷う感じでなにしろ外が
見えない。見えるところもあるが。
関西圏の地下鉄というのも、子供のときにすでにあってこれに迷わない母親がいたから
どうにか目的のところへと往き、帰ることも出来た。この時代というのは今からどのくらい前だろう
か。
多くの地下鉄が入り乱れるように走っているように思える。自動車道は知らないので、その点は
まったく知らない。地下鉄が一番むつかしいと思えた時代があって、これを歩く未知の道に例えるこ
とが出来たと思う。都会の散歩でも、程ほどの街の散歩でも迷うことはいくらでも出来る。それで、
うちに帰れないということはあったかなかったか。知っているという方を選べばそれは遠くても
間違いはない。結局そうして一つ一つ道を知るということになるが、今となっては外の世界のよう
で、内なる世界である、この鄙の辺りでも新しい道は出来て、でも途中で行き止まりというのは
ある。
迷い道は小さな住宅地でもあって、これも焦ると抜け出せない。昔の知恵というかそうゆ
うものがまだ残っている。
関東のあるところ、点に近いところを歩いていて、でも大体私鉄沿線だと無料で散歩マップと
いうのがもらえたときがあった。これはたしかすでにカタカナ語になっていたはずで、ウォーキング
という言葉になっていたかどうか。その地図は大体正確でまた間違いはなかったようだ。こうゆうも
のも今はなく似た情報が欲しければケータイ電話ということになるのだろうけど、昔もあったが、道
が交差するところはすべて直角で現わされるというようなものは一番迷う。金額でいうとそれこ
そガイドブックを買った方が、あるいは国土地理院の地図をという方が安くつくのではないか。
ずっと同じところを歩いていて、例えばそれがむこう隣三軒目のお宅の花でも一年咲かないと
忘れるもので、そうゆうものを今日は見つけた。見つけたというのもおかしく、すでにノリウツ
ギについては一度出たが、そのそばにそういえばこうゆう色のアジサイがあった。それを思い出したの
は、ノリウツギがあったからで、それからいろいろな木や花の多いところでもあって、それらが
大きくなると、陰に隠れる感じは余計に強かった。これを見つけるのは、未知の道に出くわすの
とは違うが、そうゆうこと、未知なる道に出会うということを思いださせて、さらにはこの先の不安
の大小の数をも計算させてくれた。
ノリウツギと思える花は、この前はまだ蕾のままだった。それがポツポ
ツと咲いているようだ。
アジサイと同じような、白い花びらが出てくる。背が高くてこれが残念。
淡い。
花の辺り、拡大。
アジサイでいうと、装飾花のようなところが咲き始めているようで、す
べての花がこのようになるのだろうか。これも忘れた。
目も悪い、というところ。細かいというものでなく、この赤い色が
目に入らなかった。下向いているときが多いかも。
草も生えていて、赤い色がなんだかぼやけてしまう。
あっちへいって、こっちに戻って。
よくあるガクアジサイかなー。赤い。
にしても地図を広げて、あるいは住んでいるところから少し先へ、何も見ずに出かけ歩き続けると、
大通りに出て、ここはどこだろうか、とか思うこともあった。未知の道があって、知っていてもいい
ような賑やかな街角に出る。なかなか面白い探検というか、散歩というか、遊びというか冒険で
もあって、これはいってみると後で考えると、どってことはないただの最初の一歩だったりもす
る。
歩くかどうか、昔といってもつい去年ではない、おととしくらいは遠回りして買い物にゆき、遠
回りして買い物から帰るということをやった。今はやらない。それゆえか、段々と足腰の状態も
ちょっとした出来事に耐えられなくなる。大雪は、去年から今年はひどかった。これはこたえた。
でもどうにか最悪の結果というのはなくて、考えてみるともう少し手を抜いてもよいところはあ
った。でも、それも出来ないとなると、それこそどうなるかわからない。
この先は安穏ではなく、不安の大小しか残されていないような、感じが、確証に変わったこの
冬の出来事で、春も春で、大変で夏は夏で大変になりそうだ。そう思う。だから、朝から足首が痛い
とか、思うようにもなる。もっとも、このことは、ごく最近までは本当になかった。雪深いところ
で、足首が折れ曲がりそうになるときは多いが、なんとか乗り切った。
最近で、この足のどうのこうのは、一つは竹の若いものを切り取るという作業で、右足に力が入
ってというのが一番の原因のようで、こうゆうものも柔らかいものしかやらないが、足元が不安定で、
切り株も残れば倒れる竹か笹かの上に乗って、そこから鍬を振り下ろしているから力の入れ具合に
よってはひっくり返りそうにもなる。まるで、サーカスで、そうゆうところはもうやらないと決め
た。なんだか世も末だと思う、足首の痛みであるが、これももう少し様子をみて、どうにかしない
といけない。これと比べると腱鞘炎というのは、それが手首で多いがそれは直ったりもし、またい
つ痛みが出るかわからない。足か手か、どちらも大事でそれを使って、雪をどけ、またものを切って
いる。
最初の未知の道というのは誰にでもあるもので、手を引かれる子供の時期を過ぎると、それこそ
子供と未知の、それ以外だともう少し大きくなって、自分から知らない道を歩かないといけない時
期になる。これはかなり必然性がある。本能に近いものが、この向こうはどうなっているか知
りたいという思いを募らせる。
もういい大人という時期が誰にでも来るが、見掛け倒しで終わったという感じで、これはどうで
もいいが方向音痴ということばは今もあるのか。さて知らないところに出てみるとどうすればいい
かこれは誰でも迷うもので、頭に地図があろうがなかろうが、地図は現実ではないから、行き当たり
ばったりとさほど変わらない。道はまだいい方で、これが大きな駅だとそれこそ迷子になる。さら
に、関東辺りの地下鉄というと、これが昔はなおのこと少なかったが、私も当然ながら迷った。反対
にいって戻ることが出来ないということもある。これは当時最大の難問でもあったけど、池袋駅と
か、新宿駅はいくら案内があっても今は迷うだろう。地下鉄は特に迷う感じでなにしろ外が
見えない。見えるところもあるが。
関西圏の地下鉄というのも、子供のときにすでにあってこれに迷わない母親がいたから
どうにか目的のところへと往き、帰ることも出来た。この時代というのは今からどのくらい前だろう
か。
多くの地下鉄が入り乱れるように走っているように思える。自動車道は知らないので、その点は
まったく知らない。地下鉄が一番むつかしいと思えた時代があって、これを歩く未知の道に例えるこ
とが出来たと思う。都会の散歩でも、程ほどの街の散歩でも迷うことはいくらでも出来る。それで、
うちに帰れないということはあったかなかったか。知っているという方を選べばそれは遠くても
間違いはない。結局そうして一つ一つ道を知るということになるが、今となっては外の世界のよう
で、内なる世界である、この鄙の辺りでも新しい道は出来て、でも途中で行き止まりというのは
ある。
迷い道は小さな住宅地でもあって、これも焦ると抜け出せない。昔の知恵というかそうゆ
うものがまだ残っている。
関東のあるところ、点に近いところを歩いていて、でも大体私鉄沿線だと無料で散歩マップと
いうのがもらえたときがあった。これはたしかすでにカタカナ語になっていたはずで、ウォーキング
という言葉になっていたかどうか。その地図は大体正確でまた間違いはなかったようだ。こうゆうも
のも今はなく似た情報が欲しければケータイ電話ということになるのだろうけど、昔もあったが、道
が交差するところはすべて直角で現わされるというようなものは一番迷う。金額でいうとそれこ
そガイドブックを買った方が、あるいは国土地理院の地図をという方が安くつくのではないか。
ずっと同じところを歩いていて、例えばそれがむこう隣三軒目のお宅の花でも一年咲かないと
忘れるもので、そうゆうものを今日は見つけた。見つけたというのもおかしく、すでにノリウツ
ギについては一度出たが、そのそばにそういえばこうゆう色のアジサイがあった。それを思い出したの
は、ノリウツギがあったからで、それからいろいろな木や花の多いところでもあって、それらが
大きくなると、陰に隠れる感じは余計に強かった。これを見つけるのは、未知の道に出くわすの
とは違うが、そうゆうこと、未知なる道に出会うということを思いださせて、さらにはこの先の不安
の大小の数をも計算させてくれた。
ノリウツギと思える花は、この前はまだ蕾のままだった。それがポツポ
ツと咲いているようだ。
アジサイと同じような、白い花びらが出てくる。背が高くてこれが残念。
淡い。
花の辺り、拡大。
アジサイでいうと、装飾花のようなところが咲き始めているようで、す
べての花がこのようになるのだろうか。これも忘れた。
目も悪い、というところ。細かいというものでなく、この赤い色が
目に入らなかった。下向いているときが多いかも。
草も生えていて、赤い色がなんだかぼやけてしまう。
あっちへいって、こっちに戻って。
よくあるガクアジサイかなー。赤い。