なんだか暑くなってきた。先ほどまで吹いていた、風が止んだというわけではないが、体の
熱を奪うような勢いのある風はなくなってしまった。真夏の太陽は、まだ西の空にあって、涼しげ
かも知れない、真っ白な領域を作っている。風が弱くなって、高気圧の張り出しがあるのだろう
か。今日も晴れのお天気が続くのだろうか。
チラチラと、西に東に見える景色を見てお天気占いをやる。今日は珍しく、北アルプス、
立山連峰も見えた。この時間、それはどこから見るかによって違うが、この辺りでは午前中で、すっ
かり雪のなくなった北アルプスがあって、色の黒いアルプスというのもまた、なかなか味のあるも
ので、こうゆう景色は、ある距離を置くところにいると、見る回数、見える回数は少ない。立山連峰
は、剱岳も含めて、ある距離を離れると、なんだか晴れていても見えないときは多い。これは夏で多い
といえそうで、だから夏は直接立山なり、その麓のあるところ、あるいは直截立山に登るのが一番手
っ取り早い、山そのものを見る方法であって、もうすでに登山といっていいと思う。観光バスがある
がまた多くの方はそれを利用されるはずだが、形というか、恰好は夏山登山をするというので
いいような感じがする。
昔々、私もそのバスに乗ってという立山は、弥陀ヶ原までいった覚えもあるし、実際いったの
だが山という意識はなかった。それから、旅慣れた体というものもあるようだが、突如今日は、バス
で立山へゆく、というのも少し考えもので、神経質な方、車に酔う方は気を付けた方がいいと思
う。私も途中で気色悪くなったが、これはもともと不精な生活というか、大体学生のころは特に休
みのときはそうゆうものだが、車酔いは簡単である。これの苦しみは、船酔いと同じで、またいざ
そうなってことが済むと、なんてことはない。でも自分の神経のあるところだけの敏感さを感じて、
その後にバス旅というものが苦になる。尾を引くのである。山といえば、例えば2000mくらいになる
と気圧の関係とかあって、高山病というものもでると思う。この経験はない。だから立山も弥陀ヶ原は
さほど高くないが、室堂までとなると少し心配にもなる。
何か考えがあって書いているのでないので、それこそ舵取りは風任せだが、日光というのもそ
うゆう意味で、「いろは坂」であったかこのときは、そうとう苦労した。一回か二回かその恨みみた
いなものを書いたかも知れないが運悪く、バス停に並んでいて一番最後に近いところになってしま
った。それで実際にそのバスが来ると、私だけが「立つ」という状態であった。こうゆうことが
真実として残るものだがなぜそうなったか、これは理由がちゃんとあるがもう書かない。自分が悪い
というのと、ま、気がきかないところもあった。
たしか中禅寺湖だと思うが、最初の停留場でバスは止まってそこまで乗る気でいたかどうかも
怪しいが、なにしろバスは止まった。止まってくれて、また体の中から出てくるというものも
止まってくれた。何という幸運か。
どのくらいのところまでバスでいったか、もう少し先かも知れない。こうゆう場合は、逆にゆうと降
りるときは一番で、もしも奥のほうで、後の方で悶々としていると、もっとひどかったということ
にもなるかも、と今頃思う。降りて、しばらくしたら直った。頭の中というのはどうゆう風になって
いるのか知らないが、まー余り面白くないこともよみがえることがある。
山の見えるか見えないかの話しで、一般的に夏場の方が、北アルプスは雲か霞にかに隠れて
見えないことが多い。冬は冬で、雪が降って見えない。ま、お天気が悪いと、隣の街も見えない
から、そうゆうがたがたすることでもないか。でもこれから旅の予定を組む人も多いだろうから、で
ももう山の麓に入ってしまうと、これは別次元というべきもので、待つものは私の想像を超える。
今日は当然暑かったので、もう止めようかと一瞬考えた散歩だが、これくらいの温度でそうは
簡単に止めることもないだろうと思った。その通りであって、さほどは暑くはなく、無事というかのど
の乾きも格別なく、往きも帰りも急いだ。このところ何かに出会う感じがあるが、それはなかった。
そうゆうものである、そうは毎度偶然は起こらない。また起こるべく必然も何もない。
何かが起こるときは、立て続けに起こるときもある。これが蜂に刺されてとなると大変である。
こうゆうこともなく、暑いワイと思いつつ帰って来たというところによさがある。そうでないと
いけないともう。
毎度の花の様子で、それでも私の目で見えるものも段々と少なくなろうとしているようだ。
それでもけなげに咲く花は野にあって花壇にあって、壁にあって、屋根にもあるかも知れない。
これからの花。咲く花、蕾の花、それからこれから咲くテッポウユリの
咲かない状態。
丁重にこうゆう花を撮っていると、たまにそこに虫でもいる場合もある。
でも、この原色の美しさは夏そのもので、心地よい。
なかなか描けるものでない花で、夏のスケッチなどにはちょっと荷が
重いかも。
アジサイ。珍しいというものはなかなかない。
ナンテンの花。
ナンテンの木そのものも私は好きだ。
房状に白い小さな花を付けるもののほとんどの花が咲き始める。なぜ
またこの花が出るか。
蜂のような虫が飛んできて、この小さな花の蜜でも吸いに来たので
あろう。こうゆうこともある。蜂のようで、蜂かどうか。
焦点がピタリ合う、そうゆう飛翔はまずはないと思う。
房状の花も並んでまたこの葉っぱも美しいもので、いってみると同じよ
うなものが規則的かどうか、並んでいる。すると並ぶことの美しさが出
るが、不規則かも知れず、この辺りがまた面白い。
熱を奪うような勢いのある風はなくなってしまった。真夏の太陽は、まだ西の空にあって、涼しげ
かも知れない、真っ白な領域を作っている。風が弱くなって、高気圧の張り出しがあるのだろう
か。今日も晴れのお天気が続くのだろうか。
チラチラと、西に東に見える景色を見てお天気占いをやる。今日は珍しく、北アルプス、
立山連峰も見えた。この時間、それはどこから見るかによって違うが、この辺りでは午前中で、すっ
かり雪のなくなった北アルプスがあって、色の黒いアルプスというのもまた、なかなか味のあるも
ので、こうゆう景色は、ある距離を置くところにいると、見る回数、見える回数は少ない。立山連峰
は、剱岳も含めて、ある距離を離れると、なんだか晴れていても見えないときは多い。これは夏で多い
といえそうで、だから夏は直接立山なり、その麓のあるところ、あるいは直截立山に登るのが一番手
っ取り早い、山そのものを見る方法であって、もうすでに登山といっていいと思う。観光バスがある
がまた多くの方はそれを利用されるはずだが、形というか、恰好は夏山登山をするというので
いいような感じがする。
昔々、私もそのバスに乗ってという立山は、弥陀ヶ原までいった覚えもあるし、実際いったの
だが山という意識はなかった。それから、旅慣れた体というものもあるようだが、突如今日は、バス
で立山へゆく、というのも少し考えもので、神経質な方、車に酔う方は気を付けた方がいいと思
う。私も途中で気色悪くなったが、これはもともと不精な生活というか、大体学生のころは特に休
みのときはそうゆうものだが、車酔いは簡単である。これの苦しみは、船酔いと同じで、またいざ
そうなってことが済むと、なんてことはない。でも自分の神経のあるところだけの敏感さを感じて、
その後にバス旅というものが苦になる。尾を引くのである。山といえば、例えば2000mくらいになる
と気圧の関係とかあって、高山病というものもでると思う。この経験はない。だから立山も弥陀ヶ原は
さほど高くないが、室堂までとなると少し心配にもなる。
何か考えがあって書いているのでないので、それこそ舵取りは風任せだが、日光というのもそ
うゆう意味で、「いろは坂」であったかこのときは、そうとう苦労した。一回か二回かその恨みみた
いなものを書いたかも知れないが運悪く、バス停に並んでいて一番最後に近いところになってしま
った。それで実際にそのバスが来ると、私だけが「立つ」という状態であった。こうゆうことが
真実として残るものだがなぜそうなったか、これは理由がちゃんとあるがもう書かない。自分が悪い
というのと、ま、気がきかないところもあった。
たしか中禅寺湖だと思うが、最初の停留場でバスは止まってそこまで乗る気でいたかどうかも
怪しいが、なにしろバスは止まった。止まってくれて、また体の中から出てくるというものも
止まってくれた。何という幸運か。
どのくらいのところまでバスでいったか、もう少し先かも知れない。こうゆう場合は、逆にゆうと降
りるときは一番で、もしも奥のほうで、後の方で悶々としていると、もっとひどかったということ
にもなるかも、と今頃思う。降りて、しばらくしたら直った。頭の中というのはどうゆう風になって
いるのか知らないが、まー余り面白くないこともよみがえることがある。
山の見えるか見えないかの話しで、一般的に夏場の方が、北アルプスは雲か霞にかに隠れて
見えないことが多い。冬は冬で、雪が降って見えない。ま、お天気が悪いと、隣の街も見えない
から、そうゆうがたがたすることでもないか。でもこれから旅の予定を組む人も多いだろうから、で
ももう山の麓に入ってしまうと、これは別次元というべきもので、待つものは私の想像を超える。
今日は当然暑かったので、もう止めようかと一瞬考えた散歩だが、これくらいの温度でそうは
簡単に止めることもないだろうと思った。その通りであって、さほどは暑くはなく、無事というかのど
の乾きも格別なく、往きも帰りも急いだ。このところ何かに出会う感じがあるが、それはなかった。
そうゆうものである、そうは毎度偶然は起こらない。また起こるべく必然も何もない。
何かが起こるときは、立て続けに起こるときもある。これが蜂に刺されてとなると大変である。
こうゆうこともなく、暑いワイと思いつつ帰って来たというところによさがある。そうでないと
いけないともう。
毎度の花の様子で、それでも私の目で見えるものも段々と少なくなろうとしているようだ。
それでもけなげに咲く花は野にあって花壇にあって、壁にあって、屋根にもあるかも知れない。
これからの花。咲く花、蕾の花、それからこれから咲くテッポウユリの
咲かない状態。
丁重にこうゆう花を撮っていると、たまにそこに虫でもいる場合もある。
でも、この原色の美しさは夏そのもので、心地よい。
なかなか描けるものでない花で、夏のスケッチなどにはちょっと荷が
重いかも。
アジサイ。珍しいというものはなかなかない。
ナンテンの花。
ナンテンの木そのものも私は好きだ。
房状に白い小さな花を付けるもののほとんどの花が咲き始める。なぜ
またこの花が出るか。
蜂のような虫が飛んできて、この小さな花の蜜でも吸いに来たので
あろう。こうゆうこともある。蜂のようで、蜂かどうか。
焦点がピタリ合う、そうゆう飛翔はまずはないと思う。
房状の花も並んでまたこの葉っぱも美しいもので、いってみると同じよ
うなものが規則的かどうか、並んでいる。すると並ぶことの美しさが出
るが、不規則かも知れず、この辺りがまた面白い。