暑いというか、初夏を通り越して真夏の暑さに近いものがある。西の方角から強い太陽光が
さしているし、なんで今頃この暑さという感じ。モヤシのような生活というのは違うようで、でも
これだけ急に暑く感じるというのも珍しいか、何かの異変か。これはもしかして、この地域も暖かい
というところに入ったということか。
朝のTVでの天気予報を見ていて、半分は寝ぼけているが、ときにまだ寒い空気がある、ということ
の説明もあった気がするが、その気配は今のところない。すっぽりと、暖かいあるいは暑い空気の
中に放り込まれて、それこそクーラが必要なと感じ入る気候。あれだけ寒気で悩まされた、3月4月、
5月はどこへいった、今も少しは寒いとき、あるいは涼しいときもあっていいではないか。頭のなかも
すっからかんで、こうゆうことを思うことしか出来ないのである。
こまごましたことだと、これは幾つかあるが、またもや新聞回収という日が予定されるので、
それを済ませた。多少は慣れた感じがある。新聞を見る。古新聞、古紙。全然読んでいない、目を
通さない新聞、新聞を朝さっと目と通すという考えもあるが、それでもやらない。新聞受け、あるい
は郵便もそこから入ってくる、そうゆうところから、取り出すのが面倒な、感じもある。何という堕落。
新聞はローカル紙にしろ、全国紙にしろ値段は同じなので、それこそ全国紙に変えるという手もある
が、問題もあって、それはやらない。余り新聞にのめり込むというのもおかしくなるときがある。
それでPCはというと、これも見ない。履歴はかすかなものしか残らない、一体全体どうなっている
のか。
新聞紙をあるときは、拡げてあるときは折り目をきちんとして、袋に詰め込む。広告、そのまま、
回収。申し訳ないという気が一杯だが、関係ないものなので、っこうゆうことになる。バブルのときの、
新聞本体より、広告の方が何倍も分厚いというときの感じとは違うが、それを思い出せるのは、バ
ブルで関係ない人のとる行動は、ただその広告、膨大な広告をゴミに出すことだった。新聞はどうして
いたか、これは記憶にない。新聞回収というのもあったかどうか。何しろ滅茶苦茶という記憶は
消えない。それを今夢見る人がいるという。なんだかなー。
あるところから竹の芽がまだ出る。もう二回も切り取った。でも、また出てくる。この作業も結構
切ない。周りが竹だらけというのも困るからで、それで若い竹は、まるでお豆腐のように、ふんわり
している。これなどは、鍬とか降り下ろすと、サクッという感じで切り取られる。この点は、その外
の草とかと違うところである。タケノコよりも柔らかいと思う。鍬だか、なんだか知らないが、昔か
らあるその器具で、竹はすくっと、切れてしまう。残忍なことをやると思う気持ちが出る。
こうゆうことは、雑草とかでは出来ない。まずは竹の出て来た芽は切れて倒れる、でも、その先ま
で、あるいは地面まで、たどり着いた、鍬を今度は引っこ抜くにこれが出来ない。何かに絡まってい
る。枯れた草、とか今ある草とかに絡みつく。そうゆう点で、ハルジオンもそうだが、それ以外の単子葉
の、花粉を撒き散らす、そうゆう草は簡単には、ちょん切れない。むつかしいところである。これを
手で引っこ抜こうとすると、それこそ手が切れそうで、草刈り器とかいわれるものも、この草に絡まっ
て難儀する。竹は若いうちは、簡単に倒せる。これがしかし一度、立派なものに生長すると切れない
し、倒れないし、折れないし、どうしようもない。
コンクリートの下から出てきそうで、始末に終えない。なんとも竹細工をする方が聞くとびっく
りだし、昔はこの竹で七夕を祝ったし、需要もあった。笹も竹も同じで、遠い昔は、ここの竹は七夕の
ときは、実に愉快な思いをした。その需要はしかし今はなく、たまに竹をというときはあるが。
それは辺りの竹がなくなる運命をたどったから。
それで、これからの野の草でもあって、どこにでもあって楽しめて、特に難儀なものでもない
というのは、アジサイだろう。竹と同じで、生命力は強い。花もきれいだ。なんでか知らないが、アジ
サイは雪の中でも生きている。それゆえ、アジサイが倒れようが、雪に埋もれようが、そのままでい
い。特に折れても問題はない。3、4cmの破片が残ると、そこから芽が出る。こうゆうアジサイの生命
力は褒め称えないといけないが、でもこれは食べることは出来ないからな、惜しいとか思う。それ
ゆえ、花が出てくると、アジサイ寺とかは賑わうのだろう。いいものである。梅雨が近いかどうか。
梅雨にアジサイはよく似合う。アジサイの花こそ、これからの花。星空はそのときはない。アジサイ
を見て愛でるということか。なんだか実際とは違うようだが、
今日もきのうに続いて暑いので、アジサイを思い出し、また梅雨の季節というのもやって来る
かもとも思ったりもする。
木々の生長というより、如何に葉っぱが大きいか、こんもりと茂ってい
るかというのが興味の対象となる。
これは普通のアジサイ。毎度出て来て、これも今年その花がこの先に
咲くはずだがそれはいつか。
カエデも出る機会が減った。まだ若々しい感じの葉っぱ。
バラの季節は続く、バラはまたあちこちで見ることが出来る。いかにも
大切に育てられてというバラを借景。
晴れた空に、麦畑。麦が金色にも輝きそう。
スズメの数が多いようだ。ツバメも少しだが見る。ツバメは上空を飛ぶ
だけのはずだが。
今ごろ、シロツメクサは最盛を迎えるかのようで、今年一番元気そう。
何度かこうゆうときがありそう。タンポポに真似ているのかな。
ピラカンサの花もきれい。もうなんどもあちこちでこの花を見る。特に
今年は白いようだ。
そこの辺りが真っ白である。
花盛り。
さしているし、なんで今頃この暑さという感じ。モヤシのような生活というのは違うようで、でも
これだけ急に暑く感じるというのも珍しいか、何かの異変か。これはもしかして、この地域も暖かい
というところに入ったということか。
朝のTVでの天気予報を見ていて、半分は寝ぼけているが、ときにまだ寒い空気がある、ということ
の説明もあった気がするが、その気配は今のところない。すっぽりと、暖かいあるいは暑い空気の
中に放り込まれて、それこそクーラが必要なと感じ入る気候。あれだけ寒気で悩まされた、3月4月、
5月はどこへいった、今も少しは寒いとき、あるいは涼しいときもあっていいではないか。頭のなかも
すっからかんで、こうゆうことを思うことしか出来ないのである。
こまごましたことだと、これは幾つかあるが、またもや新聞回収という日が予定されるので、
それを済ませた。多少は慣れた感じがある。新聞を見る。古新聞、古紙。全然読んでいない、目を
通さない新聞、新聞を朝さっと目と通すという考えもあるが、それでもやらない。新聞受け、あるい
は郵便もそこから入ってくる、そうゆうところから、取り出すのが面倒な、感じもある。何という堕落。
新聞はローカル紙にしろ、全国紙にしろ値段は同じなので、それこそ全国紙に変えるという手もある
が、問題もあって、それはやらない。余り新聞にのめり込むというのもおかしくなるときがある。
それでPCはというと、これも見ない。履歴はかすかなものしか残らない、一体全体どうなっている
のか。
新聞紙をあるときは、拡げてあるときは折り目をきちんとして、袋に詰め込む。広告、そのまま、
回収。申し訳ないという気が一杯だが、関係ないものなので、っこうゆうことになる。バブルのときの、
新聞本体より、広告の方が何倍も分厚いというときの感じとは違うが、それを思い出せるのは、バ
ブルで関係ない人のとる行動は、ただその広告、膨大な広告をゴミに出すことだった。新聞はどうして
いたか、これは記憶にない。新聞回収というのもあったかどうか。何しろ滅茶苦茶という記憶は
消えない。それを今夢見る人がいるという。なんだかなー。
あるところから竹の芽がまだ出る。もう二回も切り取った。でも、また出てくる。この作業も結構
切ない。周りが竹だらけというのも困るからで、それで若い竹は、まるでお豆腐のように、ふんわり
している。これなどは、鍬とか降り下ろすと、サクッという感じで切り取られる。この点は、その外
の草とかと違うところである。タケノコよりも柔らかいと思う。鍬だか、なんだか知らないが、昔か
らあるその器具で、竹はすくっと、切れてしまう。残忍なことをやると思う気持ちが出る。
こうゆうことは、雑草とかでは出来ない。まずは竹の出て来た芽は切れて倒れる、でも、その先ま
で、あるいは地面まで、たどり着いた、鍬を今度は引っこ抜くにこれが出来ない。何かに絡まってい
る。枯れた草、とか今ある草とかに絡みつく。そうゆう点で、ハルジオンもそうだが、それ以外の単子葉
の、花粉を撒き散らす、そうゆう草は簡単には、ちょん切れない。むつかしいところである。これを
手で引っこ抜こうとすると、それこそ手が切れそうで、草刈り器とかいわれるものも、この草に絡まっ
て難儀する。竹は若いうちは、簡単に倒せる。これがしかし一度、立派なものに生長すると切れない
し、倒れないし、折れないし、どうしようもない。
コンクリートの下から出てきそうで、始末に終えない。なんとも竹細工をする方が聞くとびっく
りだし、昔はこの竹で七夕を祝ったし、需要もあった。笹も竹も同じで、遠い昔は、ここの竹は七夕の
ときは、実に愉快な思いをした。その需要はしかし今はなく、たまに竹をというときはあるが。
それは辺りの竹がなくなる運命をたどったから。
それで、これからの野の草でもあって、どこにでもあって楽しめて、特に難儀なものでもない
というのは、アジサイだろう。竹と同じで、生命力は強い。花もきれいだ。なんでか知らないが、アジ
サイは雪の中でも生きている。それゆえ、アジサイが倒れようが、雪に埋もれようが、そのままでい
い。特に折れても問題はない。3、4cmの破片が残ると、そこから芽が出る。こうゆうアジサイの生命
力は褒め称えないといけないが、でもこれは食べることは出来ないからな、惜しいとか思う。それ
ゆえ、花が出てくると、アジサイ寺とかは賑わうのだろう。いいものである。梅雨が近いかどうか。
梅雨にアジサイはよく似合う。アジサイの花こそ、これからの花。星空はそのときはない。アジサイ
を見て愛でるということか。なんだか実際とは違うようだが、
今日もきのうに続いて暑いので、アジサイを思い出し、また梅雨の季節というのもやって来る
かもとも思ったりもする。
木々の生長というより、如何に葉っぱが大きいか、こんもりと茂ってい
るかというのが興味の対象となる。
これは普通のアジサイ。毎度出て来て、これも今年その花がこの先に
咲くはずだがそれはいつか。
カエデも出る機会が減った。まだ若々しい感じの葉っぱ。
バラの季節は続く、バラはまたあちこちで見ることが出来る。いかにも
大切に育てられてというバラを借景。
晴れた空に、麦畑。麦が金色にも輝きそう。
スズメの数が多いようだ。ツバメも少しだが見る。ツバメは上空を飛ぶ
だけのはずだが。
今ごろ、シロツメクサは最盛を迎えるかのようで、今年一番元気そう。
何度かこうゆうときがありそう。タンポポに真似ているのかな。
ピラカンサの花もきれい。もうなんどもあちこちでこの花を見る。特に
今年は白いようだ。
そこの辺りが真っ白である。
花盛り。