アジサイは初夏の花。夏過ぎると、もうアジサイはない。真夏にもないようで、梅雨のときと
よくいうが、はたしてそうか。でもアジサイの花は、大体6月ころだろう。それを知ろうと知らないま
まであろうと、アジサイの花は、咲く。大体アジサイの花がここにあるので、こうゆうことも書ける
のだけど、アジサイの花、アジサイ寺もあることだし、知らなくても、アジサイの咲いている、そう
ゆうところへと、ゆく可能性は高い。
アジサイなんて、って誰もが思うだろう。そうゆう私もそう思っていた。一体アジサイのどこがい
い、というものでなくアジサイに関係なく、行動していた。アジサイは若いときというか血気盛んなと
きは大して気にもならないし、まー咲いていようがどうだろうが、わからなくても生きていける。衝動
というのがあるようだが、そうゆうものもあるし、まったくアジサイの、関係のない生活はエネルギッ
シュな感じがする。なんだか、そうゆうときがあったのかどうか、忘れてしまった。
しかし、人も長く生きる時代である、人生は、80年は当たり前の時代で、人生は50歳といわれていた
時代は長く、それよりもあっさりと、この世を去る人も多かったようだ。時代というものを、感じ
る。不幸にも、そうゆう事故事件、もろもろに巻き込まれてこの世の人でなくなった。時代に、そうゆ
う人が名を残す。時代、時代で、時代劇で、ドラマで、こうなると、その先は見えている。
それで、現代では、ある年齢に大体達すると、アジサイの花を探したりするもので、これが不思議
だが、そうゆうものである。アジサイの花が、どの程度昔の人に知られていたか。物語に出てくる
か、知らないが、アジサイはここかしこにあったと思う。この花が突然増えた、とかいうものが
あるのかな。そういえば、今のアジサイは西洋アジサイとか聞く。これを聞くと、ドキリとする。そう
ゆうものなのか。それにしても、アジサイはどこにでもあるので、ある年齢に達すると、アジサイの
花を求めたりもする。そうゆう名所にいったりもする。これはちょうどいい。一人もいいが、二人でも
よく、でもそこにいくと大体人込みとなるので、そこはまずは素通りするのがいいようだ。
でもアジサイを愛する人は、多少のことではへこたれないで、人の去るのを待ったりもする。鎌倉、
いやー賑やか。鎌倉というと、アジサイ寺を思い出して、それ以外の有名どころも多い。もしかし
て、修学旅行とかでもゆくのだろうか。観光地である。で、集団で来られると、これは少し困りも
のだが、そこのところは機転をきかさないと。
お寺という構造、建物、配置、静寂、あるいは、精神性とかいうもの。求めるものは、なかなか
清らかな感じもあって、世の生臭さをそこで落としたい、そぎ落とすとかいう、気持ちもある。汚
れ切った、感じもする、人の一生だが、それでお寺にいって、まずは入場料を払う。そこで、禊をまずは
済ませたことにし、後は、気持ちを安らかにするため、辺りを静かに歩き、建物を見て、このような
ものを作った人のことを思う。修行とかいう言葉も出て来て、さらには、より精神性を高めない
と、とか思う。でも、この程度で十分であろう。あとは、この後にやって来る方のため、そこを退く。
その後どうなるか、それはわからないし、やっぱし沈黙の時間は続くのだろう。また来週来よう
とか思うものだ。
アジサイ寺というのは、この辺りの近くにあって、昔はよくいった。少し高いところにある。
お寺らしい感じがある。そこに登るまでもなく、途中にすでに多くのアジサイが咲いている。他に立
ち寄るところもあるから、心もち気分は漫ろだ。いろいろ見物という、ごくものを見る、ものを知る、
とか欲の皮を引っ張らせるような、そうゆうものは多い。これは邪魔といえば邪魔かも。
ここのいえにある、あるアジサイは、ガクアジサイのようでヤマアジサイのようでガクというか、
装飾花は出来るしすでに出来ている。このアジサイはどこかでもらったものか、たぶんものすご
く昔はなかった。気が付くとあった。でも先に気が付くのはやっぱり普通のアジサイだ。
それで、ガクアジサイか、あるいはヤマアジサイか、これは他でも見受けられるが、その花の様子も
もうなんども出しているが、何しろ手の内、というかマジックのネタもないので、このアジサイを眺める
しか、ないような気にもなる、困ったときの、ガクアジサイ。
毒イチゴかな。赤いイチゴのようなもの。これ、アジサイのそばにある。
日当たりは悪い、で、風が来る。揺れる。アジサイ一つで、揺れるので
ぶれるケースも多い。
装飾花、外に出来る花は白い。でも色は変化する。アジサイの小さい粒
粒は、色を緑から他の、この花のものに変えつつある。
淡いが、赤味が少しだけ出て来た。
このアジサイの装飾花を横から撮るというのはなかなか思い付かない。
つまり、花としての大きさがない、それがようやく大きくなって、横か
らという気になった。よかった。
完全に座った、のかあるいは中腰か、かなり不安定である。こんにちは、
という気分である。
ここまで寄るとねー。
一度小さくなった。ちんちくりんにされた、1年目は小さいまま。ことし
は、まる2年目のはずで、ずいぶん大きくなった。よかった。
よくいうが、はたしてそうか。でもアジサイの花は、大体6月ころだろう。それを知ろうと知らないま
まであろうと、アジサイの花は、咲く。大体アジサイの花がここにあるので、こうゆうことも書ける
のだけど、アジサイの花、アジサイ寺もあることだし、知らなくても、アジサイの咲いている、そう
ゆうところへと、ゆく可能性は高い。
アジサイなんて、って誰もが思うだろう。そうゆう私もそう思っていた。一体アジサイのどこがい
い、というものでなくアジサイに関係なく、行動していた。アジサイは若いときというか血気盛んなと
きは大して気にもならないし、まー咲いていようがどうだろうが、わからなくても生きていける。衝動
というのがあるようだが、そうゆうものもあるし、まったくアジサイの、関係のない生活はエネルギッ
シュな感じがする。なんだか、そうゆうときがあったのかどうか、忘れてしまった。
しかし、人も長く生きる時代である、人生は、80年は当たり前の時代で、人生は50歳といわれていた
時代は長く、それよりもあっさりと、この世を去る人も多かったようだ。時代というものを、感じ
る。不幸にも、そうゆう事故事件、もろもろに巻き込まれてこの世の人でなくなった。時代に、そうゆ
う人が名を残す。時代、時代で、時代劇で、ドラマで、こうなると、その先は見えている。
それで、現代では、ある年齢に大体達すると、アジサイの花を探したりするもので、これが不思議
だが、そうゆうものである。アジサイの花が、どの程度昔の人に知られていたか。物語に出てくる
か、知らないが、アジサイはここかしこにあったと思う。この花が突然増えた、とかいうものが
あるのかな。そういえば、今のアジサイは西洋アジサイとか聞く。これを聞くと、ドキリとする。そう
ゆうものなのか。それにしても、アジサイはどこにでもあるので、ある年齢に達すると、アジサイの
花を求めたりもする。そうゆう名所にいったりもする。これはちょうどいい。一人もいいが、二人でも
よく、でもそこにいくと大体人込みとなるので、そこはまずは素通りするのがいいようだ。
でもアジサイを愛する人は、多少のことではへこたれないで、人の去るのを待ったりもする。鎌倉、
いやー賑やか。鎌倉というと、アジサイ寺を思い出して、それ以外の有名どころも多い。もしかし
て、修学旅行とかでもゆくのだろうか。観光地である。で、集団で来られると、これは少し困りも
のだが、そこのところは機転をきかさないと。
お寺という構造、建物、配置、静寂、あるいは、精神性とかいうもの。求めるものは、なかなか
清らかな感じもあって、世の生臭さをそこで落としたい、そぎ落とすとかいう、気持ちもある。汚
れ切った、感じもする、人の一生だが、それでお寺にいって、まずは入場料を払う。そこで、禊をまずは
済ませたことにし、後は、気持ちを安らかにするため、辺りを静かに歩き、建物を見て、このような
ものを作った人のことを思う。修行とかいう言葉も出て来て、さらには、より精神性を高めない
と、とか思う。でも、この程度で十分であろう。あとは、この後にやって来る方のため、そこを退く。
その後どうなるか、それはわからないし、やっぱし沈黙の時間は続くのだろう。また来週来よう
とか思うものだ。
アジサイ寺というのは、この辺りの近くにあって、昔はよくいった。少し高いところにある。
お寺らしい感じがある。そこに登るまでもなく、途中にすでに多くのアジサイが咲いている。他に立
ち寄るところもあるから、心もち気分は漫ろだ。いろいろ見物という、ごくものを見る、ものを知る、
とか欲の皮を引っ張らせるような、そうゆうものは多い。これは邪魔といえば邪魔かも。
ここのいえにある、あるアジサイは、ガクアジサイのようでヤマアジサイのようでガクというか、
装飾花は出来るしすでに出来ている。このアジサイはどこかでもらったものか、たぶんものすご
く昔はなかった。気が付くとあった。でも先に気が付くのはやっぱり普通のアジサイだ。
それで、ガクアジサイか、あるいはヤマアジサイか、これは他でも見受けられるが、その花の様子も
もうなんども出しているが、何しろ手の内、というかマジックのネタもないので、このアジサイを眺める
しか、ないような気にもなる、困ったときの、ガクアジサイ。
毒イチゴかな。赤いイチゴのようなもの。これ、アジサイのそばにある。
日当たりは悪い、で、風が来る。揺れる。アジサイ一つで、揺れるので
ぶれるケースも多い。
装飾花、外に出来る花は白い。でも色は変化する。アジサイの小さい粒
粒は、色を緑から他の、この花のものに変えつつある。
淡いが、赤味が少しだけ出て来た。
このアジサイの装飾花を横から撮るというのはなかなか思い付かない。
つまり、花としての大きさがない、それがようやく大きくなって、横か
らという気になった。よかった。
完全に座った、のかあるいは中腰か、かなり不安定である。こんにちは、
という気分である。
ここまで寄るとねー。
一度小さくなった。ちんちくりんにされた、1年目は小さいまま。ことし
は、まる2年目のはずで、ずいぶん大きくなった。よかった。