雪はチラチラと降っている。ごっそりと降るというのは、今のところ比較的、暖かいといわれるこの辺りだから、ない。チラチラも、ほんのチラチラで、こんなもの、という感じの雪。昔は、暖かいところに住んでいて、雪が降るのが楽しみだった。最も子供のときだから、という理由もある。それでも、鈴鹿山脈を越えて乾いた空気となったもののなかに、白い雪が混じると、嬉しかったものだ。まったく、冬の乾いたお天気はただ寒いだけで、それ以外の何者でもなかった。
そうゆう天気と時代を思い出させてくれる、お天気だが、ぜんぜん歓迎はしていない。この寒さを必要としている、そうゆうところにプレゼントしてあげたい。まったく、どうしたことか、と思う。これではますます景気も、冷え込んでしまう。
桜というと、この辺りにその木はない。いまどきの話しで、なぜ桜かというのは、これは4月という時期に依存している、と思う。そうゆうものと重なるものがあるから。桜なのであって、それ以外はというと、ぱっと咲くがぱっと散る、いわば花火にも似た感触があって、しかし子供のときも、桜を見に行くということはあった。つまり、住んでいた近くに桜の公園があった。なぜに桜か、は問われなかったのである。
子供のとき、桜を見て、どう思うか自分でももうわからない。今桜を見ても、きれいだが、それと思い出となると、公園での花見だが、花見となると桜は、もうどうでもよかった、ような。だから、夜に公園の桜を見に行った。そのころ、その公園に灯りはあって、しかしもう夜も遅くまで宴会をされるとその後が大変というので、灯りは8時には消されたはず。それにしても多くの人がいて、ごったがえしていた。その公園とは、上野のお山のことで、もう思い出すこともない。
食べて飲んで、飲めない人は寒さに耐えて、これはこれで大変だった。今思うと、多少胸が痛むが、みなさん多分忘れているのではないか。
桜の花が、どうのこうのというのは、よくはわからない。ソメイヨシノが開花した、というのが、皆のスタートになるようだが、どれがソメイヨシノか不明である。これがそうだろう、そうゆうものは見ることは多かったと思う。今も、この辺りから街の真ん中へ出かけるとここにソメイヨシノがというのはわかりそうで、しかし宴会の経験はない。その桜を見たのも、ものすごく昔。
その桜の花が少し開いている、こうゆうことをラジオで聞いたが、そうゆう花もあっておかしくはない。ただ、それに続くことは今はありそうにない。もしかしたら、珍しく3月に、桜の開花があるかと思ったが、珍しく、3月の終わりに雪が積もった、という方が起こりうる確率は高いようだ。ソメイヨシノの、木の枝にその花ではなく、雪が積もるというのも面白い。ただ現実的かどうか、明日にならないとわからない。
桜の種類もいろいろとありそうで、この辺りにしかし桜はない。ほとんどなく、新しく出来た公園とかに、ぽつぽつとある。この木の特定は出来ないのは当然だが、桜の一種であって、ソメイヨシノかどうか「遺伝子鑑定」でもやるしか結果は出ないような気がする。しかし梅とか、桃とかではなく、やはり桜が一番近い。
なぜ、桜が少ないか、それより梅とか、柚子とかが多いということ、その他秋の柿も多いことから、推定することは出来るが、もともと桜は「なかなか」なかったというのがもっともらしいものである。
ただ彼岸桜は、ある。あるが、知っているものは切られてもうない。切られた理由がよくはわからない。それ以外に、今頃一つだけ、桜のような、木の形といい、花の色といい、そうゆうものが一本だけ目に入ることがあるが、この時期に、ソメイヨシノは咲くのはおかしく、これは桜のように見える、何か他の木だと思う。ただ、彼岸桜ではない、とも思う。
桜、というと、昔の花見につながり、それとTVで見る、桜ということになる。これが結構にいい。特に喧騒に巻き込まれることもなく、あー今も上野のお山の桜は咲いている。それだけで十分で、これはすでにTVでも見た。
明るい光の、当たる瞬間。
暗めのツバキだが、これでも目一杯明るいときに撮っている。木の陰の、ツバキ。
生長甚だしい、フキノトウ。こうゆうのが、あちこちにある。
黄色いスイセンに、日が当たった。ここまで来て、赤と緑と黄色で、信号かと思う。この黄色いスイセンが呼んだのである。
超接近。この花の中に、小さな虫の一匹もと思ったがいない。
雨の後で、いつもの、水玉の輝きがある。まるで、宝石だが水である。
大玉というか、水玉の大きなもの。表面張力とかが働いているらしい。
この写真を見て、その力を考えることはなく、なぜこの葉っぱに水玉が出来るかの方が、疑問として残る。
毎度な感じで、何かこれに変わるいいアイデアはないかなー。