お天気は、相変わらずのネコの目天気で、晴れるときもある。先ほどまで、太陽が輝いていた。そんなことは話題にもならないが、雨が降るか、雪が降るか、アレラが降るか、その他、変わることのない、快晴の空があって、いったいどこに、宇宙船は位置しているのか、わからない。また不思議と、雷は鳴らない。今の時代の恐ろしいものの一つは、これは地震だが、これはもういい。まる2年前のきょうに、能登半島沖地震があったが、地震は1年とかいう周期とは関係なく、またこの辺りも、2年たったからといって、ナマズがどうのこうのもなかったようで、明日はわからない。
5年日記というものも、面倒くさく、これも目的は最初は違った。普通の手帳が売ってなかったというか、手に入らない可能性もあって、ある特殊なところで購入したもので、その後に1年ものの手帳も購入した。しかし、5年日記の始まりが、2007年だから、書かざるを得ない。そこそこ線を引いて、使いやすくし、また5年日記だと、日付が優先されて、それが毎年同じ曜日になるとは限らないから、いちいち、その年度のところに、今日は、何月何日ということを書かないと、いったいきょうが2009年の何月何日なのか、わからなくもなる。同じページに、たとえば3月25日が5年分、あるものは空白が、縦に並ぶ。このものを見るときの恐怖感はない。いったいきょうは何月なのか、何曜日なのか、それがわからなくなる。
ちょっとおかしいのではないか、と思われる方もいらっしゃるだろうが、それもあるが、同じ日付が5つも並ぶと、きょうは何年の何月の何日か、一瞬わからなくなる。それを回避するため、何月何日かというのを、先に書いておく。
5年日記の功罪があるが、いずれにしろたくさんの事を把握するのは得意ではない。この先、まだ2年と半分は残っている。せめて、これくらいの時間は、ちゃんと埋めることが出来るようでありたい。この作業はもちろん、手帳を見ながらやるが、それ以外に、日付を睨むと、忘れていたことも思い出す。また過去の時間というのもそこに少し書かれていて、進歩はなく、退化しかないこと、自分では、そうゆうこともよくわかる。よくではなく、多少かも知れない。
今、3月のお天気一覧というのも見ることが出来るが、朝の室温に関しては、ことしは乱高下があるのはたしかなようである。
地震か、今も割りとはっきり思い出すことが出来るが、しかし、まる2年前という感じはない。記憶の曖昧さによる、時間の不確定性は激しい。
地球も安定した棲みかではなくなっているなというのは、これは地震のことはさて置いても感じることは多々。去年のかなり振幅の激しいお天気状態からも、わかるようではあるが、TVでのもっと大きな、地球規模での災害報道を見ると、これは「どきどき」では済まなくて、見ない方がいいようにも思えてくる。笑えない現実がそばにある、と思うだけだ。
氷河が溶けている。チベットの高峰の氷河、キリマンジャロの万年氷河が、ぐっと少なくなった。もっとわかりやすく、規模の大きいものでは、北極海の氷の減少。さらに、南極海でも凍っていた部分が離れていって氷山になり、これの大きさが島といっていいもので、それがプカプカ海を漂う。聞きたくない話しで、もうわかっている。その先に見えるものは、なんだろうか。
希望が持てるものというと、宇宙への退避でとなるが、そこまではさすがに私も考えることはない。宇宙での滞在は、ある能力を備えた人のみが可能であって、また最後は地球に戻ってくることを前提としている。
ISSに乗り移った、宇宙飛行士の若田さんは、いろいろな困難を乗り越えられて、それを現実のものにした。この話しは、非常に勇気付けられるものであって、しかし遠く及ばないものがある。むつかしいところ、またその厳しい現実というのは、何も論じることも出来ないが、これはTVでも流れたが、
飲み水として、自分の排泄したものの循環についての話しが、一番面白く感じられた。こうゆうところは、そのものを現実に飲み干す方も、地上におられるということ。その他、水というのも、だんだんときれいにされてゆくもので、その考えかたの究極に、排泄物の循環というものがある。しかし、そうゆう装置が地上で出来あがって、いかがですかということもあると思うが、やっぱりそれは結構ですと、私は思う。でも、理屈からいって、自分の体の中から出てきたものだから、そんなに汚いと片付けるのもおかしいといえばおかしい。
今は朝の時間がすでに明るくなっている。
なかなかこうゆうことも出来ないものだが、朝の光というだけで、緑の葉っぱがやけに美しく光る。
わずかな朝の光の中、赤いツバキが、輝いて見える。かろうじて、写っていた。
ほとんど、光のことも考えていない。かすかな光で、この像が残っていた。
アオキの、花の芽は、次第にその数を増やしている。外に日が当たる方向に花がある。
シャクヤク(芍薬)の、芽が出てきて、少し時間がたった。
去年は、なぜか花は咲かなかった。
透過光で、こちらは、最初から、日が滲み出る様子を狙った、赤いツバキ。
これも、早朝だから出来ることで、そうゆう機会は、なかなかない。
滅多にないことの、一こま。
5年日記というものも、面倒くさく、これも目的は最初は違った。普通の手帳が売ってなかったというか、手に入らない可能性もあって、ある特殊なところで購入したもので、その後に1年ものの手帳も購入した。しかし、5年日記の始まりが、2007年だから、書かざるを得ない。そこそこ線を引いて、使いやすくし、また5年日記だと、日付が優先されて、それが毎年同じ曜日になるとは限らないから、いちいち、その年度のところに、今日は、何月何日ということを書かないと、いったいきょうが2009年の何月何日なのか、わからなくもなる。同じページに、たとえば3月25日が5年分、あるものは空白が、縦に並ぶ。このものを見るときの恐怖感はない。いったいきょうは何月なのか、何曜日なのか、それがわからなくなる。
ちょっとおかしいのではないか、と思われる方もいらっしゃるだろうが、それもあるが、同じ日付が5つも並ぶと、きょうは何年の何月の何日か、一瞬わからなくなる。それを回避するため、何月何日かというのを、先に書いておく。
5年日記の功罪があるが、いずれにしろたくさんの事を把握するのは得意ではない。この先、まだ2年と半分は残っている。せめて、これくらいの時間は、ちゃんと埋めることが出来るようでありたい。この作業はもちろん、手帳を見ながらやるが、それ以外に、日付を睨むと、忘れていたことも思い出す。また過去の時間というのもそこに少し書かれていて、進歩はなく、退化しかないこと、自分では、そうゆうこともよくわかる。よくではなく、多少かも知れない。
今、3月のお天気一覧というのも見ることが出来るが、朝の室温に関しては、ことしは乱高下があるのはたしかなようである。
地震か、今も割りとはっきり思い出すことが出来るが、しかし、まる2年前という感じはない。記憶の曖昧さによる、時間の不確定性は激しい。
地球も安定した棲みかではなくなっているなというのは、これは地震のことはさて置いても感じることは多々。去年のかなり振幅の激しいお天気状態からも、わかるようではあるが、TVでのもっと大きな、地球規模での災害報道を見ると、これは「どきどき」では済まなくて、見ない方がいいようにも思えてくる。笑えない現実がそばにある、と思うだけだ。
氷河が溶けている。チベットの高峰の氷河、キリマンジャロの万年氷河が、ぐっと少なくなった。もっとわかりやすく、規模の大きいものでは、北極海の氷の減少。さらに、南極海でも凍っていた部分が離れていって氷山になり、これの大きさが島といっていいもので、それがプカプカ海を漂う。聞きたくない話しで、もうわかっている。その先に見えるものは、なんだろうか。
希望が持てるものというと、宇宙への退避でとなるが、そこまではさすがに私も考えることはない。宇宙での滞在は、ある能力を備えた人のみが可能であって、また最後は地球に戻ってくることを前提としている。
ISSに乗り移った、宇宙飛行士の若田さんは、いろいろな困難を乗り越えられて、それを現実のものにした。この話しは、非常に勇気付けられるものであって、しかし遠く及ばないものがある。むつかしいところ、またその厳しい現実というのは、何も論じることも出来ないが、これはTVでも流れたが、
飲み水として、自分の排泄したものの循環についての話しが、一番面白く感じられた。こうゆうところは、そのものを現実に飲み干す方も、地上におられるということ。その他、水というのも、だんだんときれいにされてゆくもので、その考えかたの究極に、排泄物の循環というものがある。しかし、そうゆう装置が地上で出来あがって、いかがですかということもあると思うが、やっぱりそれは結構ですと、私は思う。でも、理屈からいって、自分の体の中から出てきたものだから、そんなに汚いと片付けるのもおかしいといえばおかしい。
今は朝の時間がすでに明るくなっている。
なかなかこうゆうことも出来ないものだが、朝の光というだけで、緑の葉っぱがやけに美しく光る。
わずかな朝の光の中、赤いツバキが、輝いて見える。かろうじて、写っていた。
ほとんど、光のことも考えていない。かすかな光で、この像が残っていた。
アオキの、花の芽は、次第にその数を増やしている。外に日が当たる方向に花がある。
シャクヤク(芍薬)の、芽が出てきて、少し時間がたった。
去年は、なぜか花は咲かなかった。
透過光で、こちらは、最初から、日が滲み出る様子を狙った、赤いツバキ。
これも、早朝だから出来ることで、そうゆう機会は、なかなかない。
滅多にないことの、一こま。
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